銀座へ、中澤さんの個展を見に行く。電車のなかで、東浩紀の「郵便的不安たち」をぱらぱらと読む。東浩紀の頭の良さに本気で嫉妬する。特に「ソルジェニ−ツィン試論-確率の手触り」は、「存在論的、郵便的」にでてくる主要なアイディアというかモチーフが既にほとんど登場していて、文体とか論の展開とかがもろに柄谷行人の影響下にあるとはいえ、これを22歳で書くなんて、とんでもないぞ。
「『収容所群島』を読めば分るように、ソルジェニ−ツィンの、そして当時生きていた人々の経験は、いわば「解消不能」なものである。逮捕されるかされないか、10年の刑か25年の刑かもしくは銃殺か、どこに何の罪でいつ送られるのか、すべてはほぼ確率的に決められる。彼らは、ただ徹底的に受け身であるだけではない。そこでは、自らの運命に対して理由を問いただすことが、無意味なことになってしまっている。そのような問いを立てるとき、「自らの」という限定が何の意味ももちえなくなってしまっているのだ。」
このような「確率論的な死」という概念を、何故、今、提出しなければならないのか、という理由までは、勿論この論文には書かれていないけど、すくなくともぼくには、とてもリアルで生々しい概念であるように思う。
また、田中純との対談で、スターリニズム下での収容所のあり方を、次のように説明している。
「そして政治犯として逮捕された囚人たちもまた、一箇所に集められるのではなく、むしろ無数の収容所のあいだを数週間や数カ月の頻度で定期的に移動させられていたらしいですね。(・・・)このたえざる移送は囚人たちの連体と反抗の気力を削ぐために行われていたのですが、しかしそれはまた数少ない脱出のチャンスでもあり、実際に移送途中で逃亡したり行方が分らなくなった人もたくさんいた。」
群島と呼ばれ、北極圏から中央アジアまで何百とあった収容所間のこのような移送のあり方が、おそらく、郵便的、という重要な概念のもとになっているのだろう。
そして東浩紀は、ホロコーストにおける「運命的な死」とスターリニズム下の「確率論的な死」を対比させて言う。
「つまりそこでは死とは、もはやあるひとつの決定的な場所(ガス室)で運命の終焉を迎えることではなく、死の場所も分らず、生死さえ不明なまま到来するもので、まさに配達(移送)途中で行方不明になった手紙のようなものなのです。そして死のチャンスはそのまま、希望のチャンスでもある。このような状況で、死者の「記憶」とは何を意味するのでしょうか。」
これがそのまま、ハイデカー的な、存在論的幽霊、に対する、デリダ的な、場所を持たない、郵便的な幽霊、という概念の対比へとつながる。ここで東浩紀は、歴史について語っているのではない。この「収容所群島」というのは、まさに今、ぼくが生きているこの場所のことだ、と受け取るべきだろう。
あと、美術というかイメージについて考える上で重要なものと思われる指摘もあった。
「アニメ的図像の最大の特徴は、まさに地=空間がないことなんですね。街に張られているアニメやゲームのポスターを一瞥すれば分りますが、そこではたいていの場合、人物が適当に並べられているだけであり、それら相互の位置関係がほとんど顧慮されていない。どうもアニメ系のデザイナーには、カメラ位置の考え方が最初からないんですね。」
これはたんにアニメ的な図像に限らず、グラフィックから絵画まで含めて日本のアートにおけるイメージの共通した特徴であるように思う。これは致命的な欠陥であるようにも思えるが、しかし、カメラ位置(視点)や位置関係を平気で無視して、ただヴィジュアル的な効果のみを追求してしまうことで、日本の街に溢れているイメージがが、ある特異なともいえる洗練に達してしまっているというのも、事実だろう。ほんとにこれでいいのか? って感じもするけど。でも、それを批判するのは難しい。それらのイメージの生成は「主体的」な行為じゃないから、誰を、どうやって、批判すれば良いのかわからない。「日本」の悪口を言って喜んでる日本人、っていう馬鹿なことにしかならなくなってしまう。
ぼくは、それ、嫌いです、とか言って静かに拒絶するしかないのか。でも、そういう"大人びた"態度って、なんか嫌だけど・・・・。
銀座に着く。なびす画廊。中澤さんに、今日は休日だから、画廊、閉まってるとこが多いでしょう、と言われて始めて今日が祝日だったと気づく。勤労感謝の日歩行者天国ティファニーにはぎっしりと人。近くの画廊を何件か廻る。八重洲ブックセンターで、古井由吉佐伯一麦「遠くからの声」、島田雅彦「自由死刑」、中沢新一「女は存在しない」を買う。帰りの電車では、古井・佐伯の往復書簡を読む。
「何ごとかを熟知するということは、一個人の体験では間に合わない、つまり、一代の知には余ることなのではないか。そのような累代の熟知が本来、小説には要求されているように思われます。すくなくとも熟知の幻想、書き手と読み手が分かちあえるその幻想こそ、小説の生命なのではないか、と。(古井由吉)」
そういえば、以前古井由吉はインタビューで、天気について書くと言うことは、その日の天気を書くだけではなくて、言葉のなかに折り込まれている、過去に生き、書いた、多くの人たちの天気の記憶について書く、ということで、それが小説に時間の厚みを加える、というような意味のことを言っていたと記憶している。でも、上記の引用の後につづけて、そのような「熟知の幻想」が成り立たなくなったところから、近代日本文学は始まった、とも書いている。
今日は一日、どんよりと曇っていた。銀座からバイト先へ直行。テレビで「学校へ行こう」を見る。なぜこの番組にみのもんたが出ているのかは、不明。