朝、帰るとまたネズミが吸着シートにかかっている。ネズミが部屋のなかに侵入してくる経路はおそらく一つしかなくて、だから、流しの下の配管の所にシートをセットしておけば、侵入しようとするネズミは、だいたい防げる、ということになるのだが、ネズミを殺すのはもううんざり。一体何匹殺せば良いのか。部屋のなかで食べ物を荒らすくらいなら、多少大目に見てもいいのだが、電気コードでも齧られたら、危なくてたまったもんじゃない、見逃すわけにはいかない。木造のアパートなのだから、火が出たらひとたまりもない。夜に部屋を空けることも多いし。
それにしても今日のはなかなか死ななかった。水につけても、まるでエラ呼吸でもしてるんじゃないかと思うほど、長い時間ばたばた動いていた。嫌な時間。もう少し苦しませずに殺す方法はないのか。しばらくして、鼻と口からぶくぶくと泡を出して動かなくなる。溺死体一匹完成。濡れて貼り付いた毛が、溺死体っぽさを強調してる。
洗濯。買い物。すこし眠って、午後からアトリエで制作。
紙パレットとパレットナイフを買う。ここ数年、ぼくはナイフもパレットも、筆さえほとんど使わずに、直接、画面の上に絵具をのせて、画面上で全ての作業、つまり絵具やメディウムや顔料を混ぜたり練ったりすることと、描くことを同時に画面上でやるということ、をしていたのだけど、油絵具でそれをやるのはかなり難しい。とりあえず、油絵具に一歩譲って、パレットを使って、絵具の堅さや練りをある程度調整してから、画面にのせてみようか、と思ったのだが、実際にアトリエに行って、作品を見て、それはやめることにした。買い物が無駄になったが、まあ、しょうがない。でも、最近、筆はかなり使うようになった。一枚の画面で一本しか使わないけど。
(補遺)
説明不足だったかもしれないけど、昨日の古井由吉の引用でぼくが言いたかったのは、「作品」というものは、「歴史」や「記憶」を他者と共有している、という幻想がなければ、成立することが出来ないのではないか、ということで、しかし、近代というものは、そのような幻想が既に怪しくなってしまい、「歴史」も「記憶」も、たんに個人的な体験や知識でしかなく、それならば他者から切り離された個人のつくった「作品」が、いったいどうやって他者と関係をもつことが出来るのか、という疑問や不信と無縁でいることは出来ない、ということでした。
「歴史」も「記憶」も、他者と共有出来ないとわかれば、作品は、ただ、はったりをかまして、その場で他者にインパクトを与えればよい、ということになってしまうのも無理はない。にもかかわらず、そうではない作品を指向するというのは、いったいどういうことなのか。