今日はとても冷える。朝から、ジョン・ケージの「 プリペアドピアノのためのソナタとインターリュード 」とプリペアドピアノの作品集「 イン・ア・ランドスケープ 」(ケージのCDはこの2枚しか持ってない)を何回か繰り返して聴く。ケージにハマりつつあるのか。でも、その合間に、スガシカオだとか、ローリン・ヒルだとかも聴いているのだから、ぼくの「 ケージ熱 」などかなりいい加減なもの。というか、ぼくの音楽の「 趣味 」自体が、いい加減なものでしかない訳だけども。
たしか以前、武満徹の対談か何かを立ち読みした時に読んだのだと思うけど、ケージの家に行ったら、がらんとした部屋のなかに、テーブルとイス、テーブルの上にきのこの本が一冊、その他のものは何もなかったそうだ。楽譜も、部屋を仕切る壁も、トイレのドアさえもなかったという。うーん、でも、その話、なんか出来過ぎ、って感じがする。いかにもって感じで、神話を強化してるだけか。
午後、F80の木枠、絵具、筆一本を買いに行く。ついでにCD屋ものぞいて、ケージの「 16 Dances 」を購入。ビデオのコーナーを見ると、エリック・ロメールの怪作「 木と市長と文化会館 」が発売されていた。これレンタルビデオ屋に入るのかなあ、入るなら買わなくてもいいんだけど、と思いながら買ってしまう。名画座というものがほとんどなくなってしまった今、こういうものは見つけたときに手に入れておかないと、いつ見られるか分らない。いたい出費。最近、ビデオの棚が減って、少しづつDVDが増えてきている。
今日は、油絵具との悪戦苦闘はお休み。すこし乾燥を待たなくては。
部屋に帰って、友人のDJのためのビデオを制作。難しい。90分もの時間をもたせるのは並み大抵のことじゃない。でも、あくまで音楽が主役で、バックグラウンド・ビデオでしかないのだからと、気を楽にして作業する。でもどうなのか。うーん、こんなもんで許してくれ。目を酷使しすぎ。瞼がぴくぴくする。
ここ数日、ネズミはおとなしくしている。まだ、たまに流しの下で、ガリガリと音がすることがあるけど、部屋の中までは侵入してこないみたい。
買い物へ行く、電車の中で読んだ、島田雅彦「 自由死刑 」から引用。<あまり深く考えると、死んでも死にきれなくなる。恋人とホテルで愛し合うように気軽に自殺することを説いたのは免疫不全の病で死んだフランスの哲学者だったが、彼がそんな想いに駆られたのは、この国を訪ねたあとである。この国では昔から、死がただの形式としてのみあり、必ずしも動機や理由や罪がなくても済む。(・・)死者の沈黙を皮肉や冗談と受け取るのは生きている者の勝手だ。ただ、死ぬ方も勝手に死ぬ。自殺とは本来そういう形式だ。社会や他人に自殺させられるにしても、死それ自体は全く無意味だ。無意味なものは時に笑いを誘う。死者が笑えない分、生き残った者は死者の冗談を正しく理解し、笑ってやらなければならない。その冗談が通じないと、死者はいい面の皮だ。>