夜中から明け方にかけて、カン・テイファンのCDを聴いてた。すごい音、出してる。金管ビリビリ、ニューロンばちばち、って感じ。
六時前、東へ向かってチャリンコを走らす。東の空の下の方がだんだんオレンジ色になってくる。冷たく強い風。みるみる明るくなる。誰もいない道路で点滅する信号機。陸上競技場の芝生が黒から緑になってゆく。カラスが一声鳴く。たった一声だけ。
ぼくの作品や発言など、もう絶望的にマイナーな場所から発せられる、マイナーな主張でしかない。それは何も動かさないし変えることもしない。でも、もし誰もがそういう徹底してマイナーな「 趣味 」を主張しなくなったらどうなる。そんなことにでもなれば、ますます、資本の論理というか、マーケットの原理によってあらゆる価値に線が引かれ、マーケットの価値判断が全てを決定してしまうだろう。そんな場所では、少なくともぼくは生きては行けない。
だから決して「 マイナーな趣味/価値判断 」を主張することをやめてはいけないのだ。たとえそれが砂を噛むようなむなしい行為だとしても。「 そんな"趣味"なんて近代ヨーロッパで成立したローカルで歴史的なものでしかないし、もう、そんなの終わっちゃってんじゃないの 」という、たしかに正当な言説になんか負けてはいけない。ぼくはあくまで"近代絵画"を描く。これは反動なんかじゃない。
でも、それって、オタク、と、どこが違うの ?
東浩紀は、現代において主体はシニカルであらざるを得ない、そして現在最もシニカルな主体は、オタク的主体である、と言っている。それは本当か ? ぼくには、オタクというのは信じ難いほど楽天的な人たちにみえるのだけど。東氏が言うように、価値が無いと分かっているものに、意図的に何がしかの価値を貼り付け、それが無理矢理に貼り付けた価値でしかないと充分分かっていながらも、その価値から自由ではいられない(その価値を必要とする),という複雑に入り組んだシニカルさを意識しているような人は、むしろ、オタク的な共同体のなかでは稀で、浮いてしまうのではないか。ぼくには、彼らが自らの共同体の内部の価値判断に対して、すこしの疑問も不安も揺らぎも、持っていないようにしかみえない。
そんなんじゃあ、ある指導者の言うことをまるっきり信じ込み、後になって、ある日突然、自分はあいつに騙された、許せない、とか言い出すような人と同様、全く知性というものが欠けている、と言うしかないのではないか。
結局は、知性、というものが必要だ、という、つまらない凡庸な結論になってしまうのか。
今日、体脂肪率を測定した。10%ちょっと。30代の男の標準は20%前後らしいから、大体半分くらいか。でも、体重は、ほぼ標準体重。て、ことは、マッチョってことなのか。知らなかった・・・・。(ここ、笑うとこ。念のため。)
ジム・ジャームッシュの「 デッドマン 」を今頃になってやっと見る。ジム・ジャームッシュは明らかに停滞を選択しているように見える。ヴェンダースが、停滞する時間=ロードムービーを放棄してしまったのに対して、ジム・ジャームッシュはあくまで停滞にこだわる。これはとても貴重なことだと思う。西部劇、というのも、停滞する時間=ロードムービー、を実現するために必然的に選択されたものだろう。「 デッドマン 」では今までにないくらい濃密な停滞を実現することに成功している。シティーミニマリスト(笑)であることからも、少しだけ自由になれたみたいだし、70年代のアメリカ映画を思わせるような、チープでワイルドな感じも、けっこう好み。ジム・ジャームッシュは決して、ちょっと前に流行ったアート系の監督、なんかじゃないぞ。あと、音楽、というかあの歪んだギターの音が素晴らしい。ちょっと音に頼り過ぎでずるいよ、っていうくらい良い。
夜遅くなってからビデオを返す為に外出。金曜の夜の街はすっかり、忘年会&クリスマスっていう雰囲気。駅前で一人ギターを弾きながら「 恋人はサンタクロース 」を唄っている青年が居た。ひどい音痴。そのうえ、ギターの音も超情けない。お前は何を主張したいのだ。