部屋に帰ると、ビデオを送った友人からメールが来ていた。とりあえずOKということらしい。ほっとする。出だしの7、8分くらいがかなりトロいのと、何箇所かが、いいかげんな繋ぎのまま残ってしまっているのが気になるのだが・・・。
今日の午前中は講義。いよいよ大トリのゴッホゴッホは対象に肉迫するタイプの画家で、想像力(あるいは構想力)において弱いところがある、という指摘は重要。つまり目に見えているものしか描けない、ということ。しかし、そこにある見えているものから、とんでもないものまでを見てしまう。幻視者というより、見者という言葉の方がぴったりくるように思う。見者は、すごいものを見てしまう能力はあっても、それによって何かが実現出来る訳ではない。せいぜい絵を描くことによってヴィジョンを示すくらいしか出来ない。
ぼくには、マウフェが死んだ後に描かれた桃の木の絵がとても気になった。尊敬する人の死の悲しみを、あんなにも晴れ渡った美しい空間の中に見てしまう、というのはちょっと凄いことだ。しかし、だからといって、その凄いヴィジョンによって死の悲しみや、人の死そのものが救われる訳では少しもなくて、かえって、人の死そのもの、が際立ってしまう。
だからぼくらは、強烈なヴィジョンを味わったり賛美したりするのではなくて、ただ、それに耐えるしかない、と思う。絵画には、ここまでのことが可能なのだ。こんなことまで出来てしまうのだ、ということに驚く感性が必要だ。それが無い人には、絵画なんてスカしたアートか教養でしかないだろう。
ただ、そのような凄いヴィジョンが、天才の手によっていきなり現れる、という訳ではない、ということも忘れてはいけない。ゴッホが一生掛けて行った、様々な試行錯誤や学習、地味な努力、数々の失敗や思い違い、等の果てに、それらは辛うじて生まれ得たものなのだ。ただ漫然と、天才や傑作を待ち望んでいても、そこからは何も生まれないだろう。
午後から、銀座に出て、櫻井くんの個展。そこでの会話で、ぼくは「 業の深いマニア 」ということにされてしまう。まあ、否定はしないけどね。
ギャラリー現で、個展のDMに使う写真を見せてもらう。展覧会のこと、作品のことについて少し話す。
帰りの電車の中で、PageMillのマニュアルを一生懸命読んでいる中年男性がいた。どんなホームページをつくろうとしているのだろうか。
帰ってから、イェジー・スコリモフスキーの「 出発 」をビデオで見ようと思っていたのだけど、かなり疲れていて、目の奥がジンジン痛むので止めにして、ブラジル物のCDを何枚か、ぼーっ、と聴く。こういう複雑なグルーブの曲を小さいときから聴いてれば、そりゃあ、サッカーも上手くなるだろう。