夜中から明け方にかけて、クラウス・オガーマンのオーケストラとジョビン自身のピアノ、ギターによる、ジョビンの作品集と、マイルス・デイビスの「 キリマンジャロの娘」を聴いていた。
クラウス・オガーマンのアレンジとジョビンのシンプルで繊細なピアノ。ジョビンの曲はこうでなくては。上手なジャズミュージシャンとかがやると、全然別のものになってしまう。まあ、それはそれでいいのだけど。
マイルスについては、70年代のバリバリのエレクトリックマイルスが好きなのだけど、最近はこの過渡的ともいえるアルバムがとても気になっている。それと、60年代後半のクインテットによる演奏の良さも、少しづつ分かってきたように思う。でも、ライブ録音のやつはちょっと難しいが・・・・。
六時前にチャリンコで東へ向かって疾走。今朝はまだ暗く、東の空にも明りが見えて来ない。日の出がこんなに遅くなったのか、と思ったら曇ってるだけだった。今朝もそんなに寒くはない。
午後、少し眠る。眠っているところを、ガスの集金で起こされる。ついでだから、電話代とか保険料とか、こまごまとした支払いをしてしまう。と、かなり懐がさみしくなる。今月、バイトが忙しかった分も、結局、絵具だとかキャンバスだとかに化けてしまう。冬物のあたたかいジャケットと、足元のあたたかくなる、ちょとハードな感じのするショートブーツが欲しいのだけど、うーん、無理か。
そういえば、12/1 に見かけた猫を、その後一度も見ないけど、早速誰かに拾われたのだろうか。本格的に寒くなる前に拾われてよかったのかも。毛足が短くて、寒さに弱そうだったし。
数日前に見直した、ゴダールの「 中国女 」について。事物と言説との乖離が{ 中国女 」という作品の基調音になっているように思う。とても美しいが幼さの残った、まだ子供だと言ってもいいかもしれないアンヌ・ヴィアゼムスキー(のイメージ)と、その薄い唇から発せられる生硬で教条的な政治的言説(の内容)との間の決定的な乖離。この乖離そのものが、官能的であり、悲痛な(悲劇的な)ものでもあり、同時に滑稽でさえあるのだ。
ジャン・ピエール・レオーとアンヌ・ヴィアゼムスキーによって演じられる、「 二つのことを同時にする 」ということについての会話が、あんなに素晴らしいシーンになったのは、そこでの二人のイメージ(ショット)の素晴らしさによるものでも、その会話の内容によるのでもなくて、二人がまさに事物と言説との乖離の真っただ中に存在しているからだと思う。
だから、「 中国女 」という作品の内容(意味)は、ゴダールによって撮影された美しいイメージだけにあるのでも、登場人物たちによって語られ演じられる急進的なマルクス=毛沢東主義的な言説の内容にだけあるのでもなくて、その二つの系列がバラバラに、しかも同時に存在してしまうことの、官能、悲痛、滑稽、ということにあるのだろうと思う。
夕方から夜にかけてアトリエで制作。なんとなく手ごたえを掴みつつあるように思うのだが、これが勘違いでないことを願う。とりあえず今のテンションを持続するようにしなければ・・・。