目覚める。頭痛は、なんとか大丈夫みたい。でも、肩のこりは相当なもの。一応、リゲインEB錠を飲んどく。サカモトの曲を思い出さないようにしながら。
午前中のうちに、溜まっていた洗濯物を片付ける。BGMは、マイルス・デイビス「 スターピープル」、スガシカオ「 スウィート 」、スティービー・ワンダー「 ミュージック・オブ・マイ・マインド 」。ファンキーな洗濯。
そういえば昨日見た、イェジー・スコリモフスキーの「 出発 」で使われていた、良いんだか悪いんだかよく分らない、不思議な、ジャズっぽい曲は一体何なんだろう。シュシュトフ・コメダとかいう人のものらしいのだけど。
「 出発 」という映画の妙な印象の希薄さは、とても不思議な感じだ。1967年に作られたそうだから、ほぼ、ゴダールの「 中国女 」やトリュフォーの「 夜霧の恋人たち 」なんかと同じ頃。(3本とも、ジャン・ピエール・レオーが主演。)この3本を並べてみただけでも、当時のレオーのものすごい活躍ぶりが伺われる。全く肌触りの異なる、この3つの映画の現場の間を、レオーがあの独特のせかせかとしたつんのめるような動きで移動していた、と想像すると、なんかわくわくする。
特に「 出発 」は、あのレオーの独特の身体の運動感に、どこまでも忠実に迫ろうとしているように思う。スコリモフスキーの他の作品を見ていないから何とも言えないのだけど、「 出発 」という映画のフォルムや希薄さは、レオーという身体の運動に忠実であろうとすることによって決定されたもののように感じた。
「 ビリィ・ザ・キッド 21歳の生涯 」は、今まで見たペキンパーのなかで、一番良かった。ペキンパーは正直、イマイチ苦手なのだけど、これは別。物語の構成(時間の配分)も結構大胆だし、空間の設定も独特のものがある。70年代的なロマンチックさも、ペキンパー的なハッタリも、適度に押さえられてるし、ざらざらと荒れたワイルドな感じの肌触りがいい。それとこの映画で、動いているボブ・ディラン、を初めて見たけど、さすがにカッコいい。
今日は、黒沢清の「 大いなる幻影 」の初日。(前にこの日記で17日と書いたのは間違いでした)午後から久しぶりに澁谷へ。ユーロスペース。けっこう混んでた。
いやあ、黒沢清は、なんというか、ちょっと凄いことになってる。ここまでやっちゃうのか。とにかくこれは「 とんでもないもの 」だから、なんとしても見るべき。この、とんでもなさ、を、どうやって言葉にしたらいいのか・・・・。今、同時代に、何らかの形で「 作品 」というものを作っているあらゆる種類の人たちのなかで、黒沢清以上に刺激的な仕事をしている人をぼくは知らない。とまで、興奮が冷めないうちに勢いで言ってしまいたい。こういう「 とんでもないもの 」に触れるために僕は生きてているのだし、稀にではあるけれど、こういう「 とんでもないもの 」に出会うことが出来るからこそ、ぼくは美術とか映画とか、そういういくらやっても何の得にもならないものを追っかけてしまったりするのだ。
チラシにのっていた黒沢清の文章を引用する。<二人が愛し合うという物語は、結局いつもセクシャルな欲求の成就か、あるいは家庭という制度への順応といった結末しかもたらさない。愛の果てには本当にそれしかないのだろうか ? そうでもないだろう。というのが私の生きている実感であり、この映画の発送の原点となった。私にはどうしても、二人の愛は永遠であるように思える。だが、世界はその永遠性を保証するのに、生殖や結婚というシステムしか用意しない。このシステムを拒絶した二人にとっては、おそらく愛はひとつの不幸だ。やがて自分自身をも見失う。愛こそが二人を翻弄する。それでも二人は永遠の愛のなかで生きていこうとする。たとえそれが大いなる幻影であったとしても。--黒沢清>
これはこれで感動的な文章だけど、この映画をそれほど上手くは説明していない。続いて、カイエ・デュ・シネマ・ジャポンに掲載されたインタビューから引用。<この映画は2005年が舞台なんですが、理由はふたつあります。最大の理由は、今はまあ世紀末。来年か再来年あたりに新世紀に多分なる。2005年くらいになると世紀末も新世紀も全て終わる。そういった盛り上がりの雰囲気が中途半端に終わってしまった感じの時代という設定です。・・略・・(二人の恋愛の)障害は二人および社会に漂っている「 あっ終わっちゃたな感 」にしたらどうだ。それで3000年じゃ何だな、と。2005年という根拠はないんですけど、何かしたいんだけど何もできないという、そういう構造を取り入れてしまったんです。多分何も変わらないってことなんでしょうね。・・略・・変わらないということ。それでいいという男とやだという女、それが二人の恋愛の障壁になっているのです。>
この二つの文章をあわせると、かなり上手い説明になるのか。でも、勿論これだけじゃ全然たりない。なにしろひとつひとつのショットが、とんでもないことになってるんだから。監督クロサワの総決算(80年代のクロサワ調もかなり復活してる)であると同時に、今までに無かった新しいものまで見せてくれている。(今までに無かった新しいもの、とは、俳優の身体に、ぐうーっと迫って行く、という感じ。従来の、俳優なんか誰でもいい、というのとはかなり違った感触。とくに女の子、唯野未歩子は、今までの黒沢映画になかった官能性を強く醸し出している。武田真治のクローズアップなども、かなり生々しい。恋愛映画なのに官能的な描写を一切排しているこの映画においてなお、官能性が際立っている、というのはどういうことか。これはクロサワの新たな局面なのか、それとも、たんに俳優の問題なのか。明らかに、洞口依子哀川翔役所広司、などに対する演出とは異なっているように感じた。)
映画が終わってから、六本木WAVEの閉店セールを覗く。韓国のシャーマン音楽の二枚と、ジョン・ケージのピアノコンチェルトのCDを購入。セゾン美術館が無くなったって知ったこっちゃないけど、WAVEとシネ・ヴィヴァンが無くなってしまうのは、ぼくにとっては大変なショック。もう、六本木に来ることもほとんどなくなってしまうだろう。
黒沢清のこと、80年代のこと、などをぼーっと考えながら、夜の六本木、麻布の周辺を、ぶらぶらと散歩する。