<作品については、考え得ることはすべて考え、考えに考えぬかなければいけないと思うが、しかし、あまり考え込んでしまうと、身体が硬くなって、何も出来なくなってしまう。あらゆることを考えた末に、あとは全て、運を天にまかせて、いいかげんともいえる態度で、えい、やぁーっ、っと、やってしまうしかないだろう。どうせ、全てを一人の人間がコントロールすることなんて出来ないんだし、コントロールなんかしちゃいけないのだから。><絵画は、空間的な把握力と、触覚的な感性とを、同時に要求する(つくる側に対しても、見る側に対しても)形式だと思う。少なくとも、西洋近代絵画以降においては、間違いなく、そうである。
近代以前の西洋美術においては、空間的な把握力の方が勝っていたのかもしれないし、西洋以外の地域の美術においては、触覚的な感性の方が、一般的には勝っているのかもしれないのだが、西洋近代絵画が偉大なのは、その両方を同時に自らに要求し、それを成立させることを可能にしたからだろう。(例えば、色、に関しても、ぼくには、明らかに、空間的な使用の仕方と、触覚的な使用の仕方があるように感じられる。しかし、セザンヌマティスゴッホ、モネ、などの作品では、その両方が分かち難く結びついている。)
近代絵画において、空間構造を構築することと、マテリアルの触覚的な感触に迫り、触れようとすることは、切り離して考えることができない。しかし、戦後のアメリカ美術によって、その結びつきが、多少、弱いものになってしまったことも事実だろう。><ぼく自身の制作に関して言えば、まず、とっかかりとして、触覚的なイメージが先にあり、それを、空間的なイメージにまで発展させて行く、という感じが強い。勿論これは極度に単純化した言い方で、実際にはそんなに単純に分りやすい筋道で制作ができる訳ではないのだけど。
ぼく自身の根底には、どうしても触覚的なイメージが、先行して重要なものとしてあるのだけど、それが空間的なイメージへと発展して初めて、解放されるというか、イメージとして強く、鍛えられたものになるように感じる。触覚的なイメージのままでは、それは閉鎖的で幼稚な、というか、いまだに潜在的なものでしかなく、それを、表に引っぱり出すには、何かしらの、空間性を必要とする。
別の言い方をすれば、触覚的なイメージを、形あるもの、にするために、絵画は最も有効な形式であるのだと言えるのではないか。>
昨日、「 Xは男だから愛するのだが、愛するためには男であってはならないのだ。」という言葉を引用したのだけど、男、であるぼくが、何かを愛するためには、絵画、という形式をどうしても必要とするのだ、なんて言ってしまうと、ちょっと、大袈裟、というか、嘘っぽくなってしまうのか。