講義。今期、最終日。ゴッホ及びセザンヌセザンヌについて、以前ぼくがある人に出したメールの一部を引用したい。(無断で引用します。すいません。)<ぼくが今回(画集で)セザンヌをみてあらためて感じたのは、ひどく抽象的でしかも大
雑把な言い方になってしまいますが、「軸がぶれている」という感じでした。
セザンヌにおいては、ひとつひとつのストロークの軸が既にブレていて、ストローク
を重ねるごとにそれが増幅してゆき、ブレとブレとが互いに干渉し相殺しあうような
場所で、ある深さをもった<歪みとしての世界>を構築している、という感じでしょう
か。(ワケの分からない言い方ですね)

高橋悠治エピクロスについてかいた
「原子の雨がまっすぐにおち、どこかでかすかにかたよる結果、むすびつき、ぶつか
り、とびちり、世界をつくる原子の、かぞえきれないくみあわせがうまれる。この原
因のない、かすかなかたよりが、魂からおこるのを、エピクロスは友情とよんだ」
という文章にちかい感じ、と言えばいいのか・・・(ちょっと違うか・・・)

軸のぶれや歪みといったものは、セザンヌにとって世界の本質に関わるようなことで、
だから、セザンヌの絵画は、調和、や、幸福、といったこととは、根本的に無縁なの
ではないでしょうか。たとえ、セザンヌ自身が調和や幸福をどんなに強く望んでいた
としても・・・。(ぼくにはあの「水浴図」というのは、セザンヌの調和や幸福に対す
る強い希求のようなものとしてしか理解できません。しかしそれにはかなり無理があ
るように感じてしまいます。)>
以上。この文章でぼくは、セザンヌの「 芸術家個人の実存 」のようなものを強調しすぎているかもしれない。でも、セザンヌが、世界と触れあおうとするとき、必ずブレが起きてしまう、というか、世界をがちっと掴むことが出来ず、するりと斜めにズレていってしまう、という感覚に強く支配されていたのだろう、ということは重要なことだと思う。だからセザンヌは、過剰なまでの構築への意志と、構築の不可能さの間で、あんなにも激しく密度の濃い仕事をすることが出来た(せざるをえなかった)のだと思う。
このことをもし見ないとするなら、セザンヌは単なる近代の巨匠、昔の偉い人、ということにしかならない。今、セザンヌの人気が無い、というのは、多分、そのような部分を見抜く能力が失われているか、そうでなければ、出来るだけ、そんなヘヴィなものには触れずに、見ないですませて生きてゆきたい、という気分が支配的だからなのではないだろうか。でも、一生誤摩化し続けることは出来ないんじゃないのかなあ・・・。どっかで一遍にツケを払うことになると思う。
あと、セザンヌについて、眼と精神、というようなことが言われるけれど、ぼくのイメージだと、眼と手の間にある精神、という感じだ。近代絵画で、セザンヌほど、手、という問題が明確に出てきている人はいないのではないか。手、というのは印象派的な筆触というのでも、手技(技術)というのでもなく、まさに手による思考というか、手を動かすことで考えるということ。眼による思考と、手による思考が、擦れ違う場所に精神が発生する、という感じ。たとえば、ゴッホなんかだと、圧倒的に眼が手にたいして優位にあるのだけど、セザンヌはどちらが優位とは言えない。
唐突だけど樫村晴香という哲学者の「 言語の興奮/抑制結合と人間の自己存在確認のメカニズム 」というとても面白い論文の一部を引用する。<彼らの(人間のこと)脳は、基本的には聴覚分節と、そこからフィードバックを受けた口腔運動があるだけで、これらの装置が後発的に言語演算に転用されている。>
つまり、人間の言語活動を可能にしているのは、単一の言語的なシステムではなく、聴覚による分節と、口腔運動という、脳のなかの本来別々に働くユニットが、特異で危うい連繋を行うことで辛うじて成立しているというのだ。<もともと何かを理解するとは、何かを聞き取ることであり、考えるとは、口を動かすことである。そして口腔運動の結果発する音声が、自分で聴覚分節/理解されるなら、そのとき彼らの言語的思考は、より完全なものになる。>
人間において、「 理解すること 」と、「 考える 」こととは全く別の行為である、ということ。そして自分が考えたこと(口を動かすこと)を理解した(聴くことができた)とき、言語活動は初めて完成する。脳のはたらきとしては、考えること、と、理解すること、は、全く別のやり方でなされる情報処理行為であって、それがたまたま、自分の声を聴く、という閉じたループ(しかしそれは、人間の身体の外=空間を必要とする)によって、微かに繋がるという地点で言語は可能になるというのだ。
これはそのまま、絵画記号における、手を動かすこと(考えること)と、それを見ること(理解すること)との連繋や分裂という問題に繋がる。多くの人は、自分が考えたこと(手を動かして描いたこと)を理解すること(見ること)ができない。そこでは絵画記号が成立しない。つまり、絵が下手だ、ということ。だからこれは、観客と画家との対立などではなくて、あくまで一人の画家の脳のシステムの内部で行われている、徹底的に、自閉的な出来事なのだ。
セザンヌにおける、キャンバスと絵具というマテリアルを通過した、自閉症的なループの密度の濃さ、は、だから、言葉をあやつることのできる全ての人間にとって、無関係ではないはずなのだ、と思うのだが・・・。