実はこの日記で、年末特別企画というのを考えていたのだけど、やめて、今日も普段通りやります。なにも年末だからって特別なことをする必要はないし、準備した企画は、きっぱり全部捨ててしまいましょう。
朝方はどんより曇っていたのだけど、10時過ぎころから少しづつ明るくなってくる。去年の大晦日は、朝からよく晴れていた。これは記憶で言っているのではなくて、去年の年末から正月にかけては、ずっとビデオカメラを廻していたから、映像としてちゃんと残っている。昨日の深夜、ビデオで、大島渚「 東京戦争戦後秘話 」と神代辰己「 一条さゆり・濡れた欲情 」を観ていたので、3時間弱しか眠ってない。眠い・・・。
神代辰己「 一条さゆり・濡れた欲情 」。これは神代辰己が同時期につくった「 赤線玉の井・抜けられます 」や「 悶絶・どんでん返し 」のような奇形的なフォルムをもった傑作たちとは異なり、オーソドックスな意味で良く出来た映画だと思う。もちろんクマシロ的な素晴らしい細部は沢山あって、特に小道具としてのスーツケースの使い方なんか、目を見張るものがあるのだけど、そういう突出した細部よりも、映画全体を通しての伊佐山ひろ子が演じるストリッパーの人物造形の方に強い魅力があるように思う。
この映画は、よりドキュメンタリー性の強い、実在するストリッパー「 一条さゆり 」の舞台を見せる(再現する)部分と、伊佐山ひろ子が演じる、「 一条さゆりに強い敵愾心を持つストリッパー 」の人物像を描こうとするフィクションの部分から成っている。
ぼくは実際にストリップというものを観たことがないので何とも言えないのだけど、ストリップってこんなに凄いものなのか、と愕然とするほど、一条さゆりによる舞台上でのパフォーマンスはとてつもなくて、鬼気迫る迫力、とかいう陳腐な言葉しか出ないのだけど、それを神代は丁寧に拾いあげるように撮影し、じっくりと見せている。そしてその緊張感が、フィクションの部分での、俳優たちによる性的なシーンにも波及していて、この映画全体を引き締めているように思う。だいたい、日活ロマンポルノというシリーズは、ポルノと名乗っていながら、性的なシーンや描写が、とても貧しくて、なにか寒々しい感じになってしまうことが多いように思うのだが、この映画は、性的なシーンによって映画全体が豊かなものになっているという珍しい例だと思う。
そして伊佐山ひろ子の圧倒的な素晴らしさ。伊佐山ひろ子が、はるみ、というストリッパーを演じている、というより、伊佐山ひろ子とはるみは、不可分なものであるようにしか見えない。伊佐山=はるみ、なのではなく、はるみ(という役は)は、伊佐山ひろ子であるからこそ、「 はるみ 」なのだ、という感じ。
一方に一条さゆりの圧倒的なパフォーマンスがあり、もう一方に、伊佐山ひろ子が演じる、はるみというストリッパーを魅力的につくりあげてゆく描写の積み重ねがある。そして最後には、いかにもクマシロ的な、開放感溢れるシーン。そして、キャメラマン姫田真佐久による繊細な仕事。
大島渚「 東京戦争戦後秘話 」。70年に制作された、「 いかにも」この時代の前衛的な映画。もう、何から何まで「 いかにも 」って感じなんだけど、大島がつくると、やはり結構面白かったりする。ビデオのパッケージに、出演している若者たちと討論をしながら脚本が書かれた、と書いてあるけど、その討論が「 どの程度 」のものだったのか、は、この映画のなかでの「 若者たち 」の会話を聞けば大体分かってしまう。そして、その討論は結局、映画の細部を彩るにすぎなくて、映画全体の流れや方向性は、依然として監督=脚本家によって完全にコントロールされてしまっている。(この点で、オーシマはゴダールと決定的に異なる。)
集団的な闘争が破綻してしまった後、人々が個人的・内面的な方向へと向かわざるを得なかった世相と、あまりにもピッタリとハマっていすぎて、もしぼくが当時の若者で、リアルタイムで観ていたら、そうとう強い抵抗というか嫌悪感を感じていただろう、とさえ思う。
人々に幻想を捨てさせ、現実と直面させるための媒介=文化的装置としての映画、を目指して、映画を集団制作するグループ。そのメンバーの一人、元木。彼は、実在するはずもない「 あいつ 」が、目の前で自殺するのを見てしまう。元木は、「 あいつ 」なんていなかったんだ、自分の幻想にすぎなかったんだ、と思い込もうとする。しかし、「 あいつ 」は遺書として一巻のフィルムをのこしている。はじめは 「 あいつ 」の存在に否定的だった元木の恋人やす子も、次第に「 あいつ 」の影に影響されてゆく。「 あいつ 」がのこしたフィルムを映写し、身体をスクリーンとしてそのイメージを受け止め、そこで愛しあう二人。次第に集団から離れ「 あいつ 」の影を追うようになる二人。しかし、ある時「 あいつ 」と元木はふいに一致してしまう。「 あいつ 」の影が途切れた場所は、元木の実家の前だったのだ。
元木は、「 あいつ 」の撮ったフィルムと全く同じものを自分の手で撮影し直すことで、「 あいつ 」の影を消してしまおうとする。しかしやす子は、それを執拗に妨害しようとする。そして・・・。
無理矢理要約すると、こんな感じ。こんな風に要約してしまうと、何か、阿部和重の小説みたいにみえてしまうかも・・・。
まあ、「 あいつ 」というのは、元木の、理性によって抑圧された部分が、回帰したものだ、とみるのが最も当たり前の解釈だろうと思う。でも、まあ、これも、いかにも、で、ありがち、なんだけど。
この映画の面白さは、元木と「 あいつ 」を結びつける、というか、元木の前に「 あいつ 」の存在を否応無しにつきつけるものが、幻想や回想やフラッシュバックのようなものではなくて、即物的な一本のフィルムであり、そのフィルムに焼きつけられたイメージである、というたった一点にかかっている。「 あいつ 」は元木の影のようなものであるけれど、それは元木の外側に物質として存在するものなのだから、元木は決して「 あいつ 」と同一化することはできない。元木が「 あいつ 」と同じフィルムを撮ることで同一化しようとするのを、やす子が執拗に邪魔するのもそのことを彼女がよく知っているためだろう。
大島は、元木と「 あいつ 」との間に一本のフィルムを置く、という仕掛けによって辛うじて、あの時代の、いかにも、で、ありがち、なモードから逃れている。