朝帰り。帰宅後、フィリップ・ガレルの「 自由、夜 」を観る。シンプルなイメージが、シンプルに積み重ねられてゆく。キャメラを廻す、という行為によってある人物なり風景なりが生成する(創造される)、という側面と、そんなこととは無関係に現実に存在しているもの、や、人、に、キャメラを向け、それが写ってしまうという側面の、中間で、実写映画、というのはつくられる。人物の息遣いや鼓動までもをなまなましく伝えるこの映画は、いわゆるドキュメンタリー・タッチでもないし、実存主義的な映画ともすこし違う。一切のケレンを排する厳しさと、そして寒々しさ。
カイロプラクティックをやっているNさんから、ナチュラダイオードという、コースター状の電磁波を除去する装置( ? )を見せてもらう。直径10センチくらいの円で、片側がコルク、もう片側がダイオードで、その二枚が貼りつけられている。アメリカではかなりポピュラーなもので、日本でも、秋葉原の電気街などで働く人はみんな持っている、と言う。
こういうものは半分お守りみたいなもので、実際どこまで効果があるのかは分らないですけど、とNさんは言うが、Oリングテストの結果などをみると、かなりの効果があるらしい。どこで売ってるんですか、と聞くと、日本では都内にあるナントカいう医療機器のメーカーでしか取り扱ってないそうだ。
この直径10センチくらいのものを一部屋に一枚置いておくだけで、人体に対する電磁波の影響をかなり減らすことが出来るらしい。マンションなどでも、二階以上に住んでいると、足元に電線なんかが埋め込まれているので、それだけでかなり電磁波の影響があるんだそうだ。
これ、飲み物の味なんかも変えちゃったりするんですよ、と言うので、本当にそれをコースターのようにしてその上にコーヒーを入れたカップを置いて一分くらい待つ。たしかにコーヒーの苦みや渋み、雜味のようなものが消えて、マイルドな味になる、が、ぼくはコーヒーの苦みや渋み、雜味のようなものが好きなので、あまりマイルドになってしまってもなあ・・・って、そういう問題じゃないか。
今日のお言葉。「 批評空間 」2000 -2-24 より、柄谷行人の発言。
『丹生谷さんの言った、美術学校で竹なら竹のコードだけを習得するというのは、文学におきかえると、歌を詠むということだったわけです。実際に恋愛などしなくても、恋の歌をつくる。いつでも即興的に歌を詠めるようにする。これを否定しようとしたのが子規です。しかし、子規は「 写生 」といったけれども、たんに物を見るということはできないと考えていたと思うんです。彼が「 写生 」に関して具体的に言ったのは、雑多な言葉を使えということですよ。俗語や漢語、さらに英語も使え、と言っている。(略)その意味では、日本近代美術に起こったのは、たんに物を見るということではなかったはずです。もっと唯物論的な問題がある。つまり、絵具の色がたくさん使えるようになったとか、油絵とか、そういうことが大事だったのではないか。』
もっとザッハリヒに ! !
今日も高円寺のマニアックなビデオ屋でビデオを借りてくる。6本。ゴダール「 カラビニエ 」(こんなビデオどうやって手に入れたのだろう。入手困難につきレンタル料百円割り増し、と書いてあった。)、ベルイマン{ 不良少女モニカ 」、パゾリーニ「 テオレマ 」、ヒューストン「 ザ・デッド 」、神代辰己「 青春の蹉跌 」、大森一樹ヒポクラテスたち 」。今日はちょっと名作路線か。