浅い眠り。あまりよく眠れず。
朝、テレビで見て初めて3連休だということを知る。考えてもれば、大学に入った年から10年以上ずっと緩やかに休日がつづいているようなもの。こんな人生でいいのか。
電車のなかで『雑草物語』(大島弓子)を読んでいたら、急に何かがぐっと込み上げてきて、号泣しそうになり、慌てて顔をあげて窓の外を見る。一体何にそんなにも反応してしまったのか。大島弓子が、今でも変わらず大島弓子でいつづけていることに対してなのか、それとも、ただ展覧会の前で頭がテンパっていて、感情の動きがちょっと変になってしまっている、というだけなのか。
『雑草物語』は別に何ということもないいつもの大島作品。家庭=社会に反発して孤立している男の子と、社会やまわりの状況などとは無関係に生きているかのような、エキセントリックなまでに無垢な女の子。その女の子が嫌でも社会的なものに巻き込まれなければならない状況に・・・。で、どたばた、どたばた。大島弓子の登場人物たちは、もともと現実性が希薄な、抽象的な人物なので、時代の流れとか、風俗的な感覚などが大きく変化しても、そのリアリティが失われる度合いが少ない。
大島作品はいつも、ある事柄に対して、素直に反応しようとすることと、それに対する社会的な評価、というか、他者の対応、との間に起きる、ズレや衝突が問題化される。主人公にしばしば、奇形的なまでに無垢な女の子が選ばれるのは、彼女たちが自分の視線と、社会的なものからの視線との間に、緩衝地帯をもうけようとせず、そのことが、ズレや衝突による衝撃を、強く作品の隅々にまで行き渡らせることを可能にするからだろう。
勿論、大島は、社会と個人の対立を図式的に描く、なんていうバカな作家ではない。ある事柄に対して素直であることが、必ずしも他者からみると素直に反応できるものではない(社会的な関係性)ということを、様々な魅力的な登場人物たちやエピソード群を、複雑に交錯させ、繊細に配置することによって、浮き彫りにする。(例えば『雑草物語』では、男の子《リュー》の母親は、当初、リューに対して、社会的なくだらないこと、を押し付けてくる存在として描かれるのだが、終盤、実は彼女は、社会的なもの、と、リュー、との間に板挟みにされて苦労していたのだ、ということが、母親の病気という事実によって明らかになる、そしてその事実が、リューに、女の子《イワニワ》との決別を決意させる。など。)
ぼくはここで、ドストエフスキーの『白痴』なんていう作品を思い出している。ドストエフスキーは、当然だけど、単純に白痴的存在を賛美、している訳ではない。ある、社会的な関係のなかに、白痴的な存在を投入することで起こる様々な反応を丁寧に描くことで、ある強い、表現「 効果 」をつくり出そうとしているのだ。大島弓子においても、大島的な無垢さを、簡単に、素朴な存在への賛美、ととってはいけないだろう。それはもっと複雑に錯綜した表現の諸効果への起点として設定されている。(例えば、『バナナブレッドのプディング』の人物関係の複雑さ、『綿の国星』の表現形態の複雑さや倒錯性をみよ。)
ところで、ぼくは最近の大島弓子では、純粋なフィクションのものより、愛猫サバとの生活を描いたエッセイ風のものの方が面白く思えてしまう。山岸涼子のエッセイ風のやつは手抜きにしか見えないけど、大島弓子のは、それ自体でとても充実した作品であるように感じる。あの独特のゆったりした語りの速度感など、今までになかった新しい側面とは言えないだろうか。なんとかその辺を追求してみたら、もう少し沢山の作品をつくれるのでは・・・と。しかし、一見大した内容などないかのようなあれらの作品は、実は膨大な(猫との)時間=情報によって支えられている訳で、多作することは出来ないだろう。かくして、大島弓子はますます寡作になってゆく・・・のか。しかし、『雑草物語』の単行本としてのあの、薄さ、は、やはりかなり悲しいものがある。
乗り換え駅では、駅周辺の大規模な再開発のための工事が進行中だ。最近、ぼくの行く先々では、どこもここも大掛かりな工事ばかりのような気がする。バブルの絶頂気でさえ、こんなではなかったはず。何故だ。