冷たい風の吹き抜けるなか、朝帰り。途中で、ドローイングで使うために、長めの木の枝を2本拾う。帰って、寝る。
昼過ぎに、起きる。今日は、関内まで行って、横浜オスカー2で、4時50分からの『カリスマ』を観て、終了後、5分で関内アカデミー劇場へ走って、6時55分からの『ゴースト・ドック』を観る、という予定だったのだけど、ちょうど出がけにコンピューターがクラッシュしてしまい、その処理に思いのほか時間がかかって、時間に間に合うかどうか、ギリギリということになってしまった。駅まで歩きながら、どうしようか迷っていた。
せっかく横浜まで行って、間に合わなかったでは洒落にならないので、『カリスマ』は新宿で観て、その後澁谷まで出て、シネマライズで『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』を観ることに、電車の切符を買いながら決めた。『ゴースト・ドック』はまた近いうちに。
テアトル新宿で、黒沢清『カリスマ』。ようやく観ることができた。
たしか90年頃のことだと記憶しているけど、黒沢はゴダールの『ヌーヴェル・ヴァーグ』という映画について、『「 ヌーヴェル・ヴァーグ 」に細部はない、あるのは全体とシステムだけだ』という内容の文章を書いていた。当時ぼくには、黒沢が言おうとしてることを、イマイチ理解することが出来なかったのだけど、97年に製作された彼の出世作ともいえる『キュア』を観て、その意味がなんとなく理解出来たように思った。全体、という言葉がここで適当なのかどうか分らないが、『キュア』は明らかにシステムの映画なのだった。確かに『キュア』には魅力的な細部が沢山つまっているのだが、その細部の魅力にいちいち引っ掛かってしまうと、このとてつもなく恐ろしい映画の重要な部分を見逃してしまう。『キュア』以降の黒沢の映画が刺激的なのは、それが人に思考する事を強いるような記号の集合体(システム)としてあるからで、素直に面白がったり、映画的な官能性を味わったりするだけではすまされない。
ことに『カリスマ』は抽象的で図式的であることを隠そうとしない映画だ。あからさまに堂々と図式的な映画だ。(ぼくはゴダールの『カラビニエ』をちょっと思いだした。)この映画は、味わうことを拒絶し、考えろ、と、命令してくるような感じすらある。考えろ、と命令するといっても、何かしらのハッキリとした問題を提起し、それについて考えることを促す、というものではない。一応、共存や共生というテーマが描かれた、ということになってはいるのだけど、ことはそう簡単であるはずがない。根から強い毒素を分泌することで他の木を枯らして自分だけ生き残ろうとするカリスマの木は、森を守ろうとする女植物学者とその妹の策略によってあっさりと燃やされてしまうのだが、その後も、森の木はバタバタと倒れつづけるのだし、森全体を救おうとしているらしい植物学者自身からして、森の水源である井戸に、何やら毒物らしいものを投げ込んでいたりもする。主人公である元刑事は、何でもないただの枯れ木を第2のカリスマとして世話をしはじめる。周囲の人間は彼の行動を理解できない。にもかかわらず、いつの間にかその第2の木にまで2千万もの値がついてしまうし、植物学者は何の害もないはずのその木を、爆破しようと必死になる。最初のカリスマの木は、それが特別なもの(怪物)であることによって価値(意味)があり、また害(悪)でもあったのだけど、第2の木は、それ自体としては何ものでもないにもかかわらず、そこに何故か価値や悪が人によって見い出されて付与されてしまう。
この映画は、何か明確な問題を設定しようとするものではなく、何かが、問題としてフレーム化されようとしたとたんに、そのフレームを破壊してしまうような出来事が起こり、問題が問題として成立しなくなってしまう。この映画には、全体を超越的に把握しているような視点が存在せず、だからいつも足元から土台がさらさらと崩れていくように進行してゆく。我々はそんなものを安心して楽しんだり味わったりなど出来ない。目の前で起こっていることは一体何なのだ。これは一体どうなっているのだ。我々は常に画面上に起きていることに気をくばり、それについて思考をフル稼動させざるを得なくなる。『カリスマ』というどこまでも抽象的で図式的な映画がこんなにもリアルに感じられるのは、そのためだろう。つまりそれがシステムということであり、仕掛けというものなのだろう。
まあ、たんに黒沢清というのは変な人なのだ、といって片付けることも出来るかもしれないのだが、しかし、世の中に変な人というのは沢山いて、変な人のつくった変な映画というもの随分とあるのだけど、ここまでのものは、そうそうある訳ではない。今後、黒沢はいったい何処へ行ってしまうのか。(しかし、この映画の洞口依子赤ずきんちゃん風の衣装って一体・・・しかも、それがぴったりと似合ってしまう洞口依子って・・・。)
テアトル新宿では、今レイトショーで『発狂する唇』をやっているはずなのだけど、予告編でかからなかったのは何故だろう。ちょっと期待してたのに。
澁谷へ向かう。シネマライズへ。まだ時間が1時間くらいあるので、余裕こいて食事とかしてたら、ギリギリで駆け込むことになってしまった。
ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』は素晴らしく幸福な映画。たっぷりと2時間、幸福を堪能しました。こういうのも、絶対アリだよね。CD欲しいです。