朝から、洗濯、部屋の整理などを含め、いろいろと雑用。部屋の整理なんつっても、狭い部屋に本やビデオとかものが多すぎて、整理しようがない。ものをあっちからこっちへと移動するだけ。
午後5時前、雑用が一段落ついたので、腕時計の電池交換のために駅前の時計屋へゆく。もう10年もここらへんに住んでるのに、初めて入る店。確かにここは10年前からあった。隣には演歌専門らしいCD屋だかテープ屋だかがある。この店がアヤしくて、外からだと中が暗くて見えないし、いつ開いていていつ休みなのか分らない、というより、やたらと閉まってることが多い。何年も貼りっぱなし演歌歌手がアヤしく微笑むポスター。それにここに客が入ってるのを見た事がない。
とにかく時計屋。入ってゆくと奥に、グレーのスーツを端正に着こなした小柄で痩せた主人が、いかにも精密機械を扱うためのものといった感じの小さなペンチのようなものや、先が細かくなっているドライバーを何本もとっかえひっかえに、眼鏡を掛けたり、外したりしながら操り、腕時計のベルトの部分を縮める作業をしていた。作業を終え、ぼくの前からいた客の女の人の腕に時計をさっと絡ませ長さを確認し、再び作業台へもどる。その時にぼくの方をちらっと見る。いらっしゃいもなければ、愛想笑いもない職人っぽい無表情の、しなやかな動作の連続。思わず見とれてしまう。『すいません、電池を交換してほしいんですけど』『少々お待ち下さい。』低い平板な声。作業台に座った時の姿のキマり方といったら、もう何十年もここでこうした作業をつづけているのだろうと思わせるに十分なもの。しかもオールド・ファッションのジェントルマンといった風情。
細いドライバーで時計の裏側のネジを外し、中の仕組みと電池の場所と数を、ぼくに示して簡単に説明して、何種類かの小さなブラシを使い分けて細かい部分の汚れを落とし、電池を入れ替え、再びネジをつけ、日時を自分の腕時計を見ながら合わせる。たったこれだけの作業の、手際のよいスムースな流れに、見入ってしまう。カッコ良すぎ。こういう感じの小さな商店がこのあたりにはまだ幾つも残っているというのに、そういう場所でほとんど買い物をしない自分が恥ずかしい。
今日はもう他にすることもないし、なんとなく気分もいいので、家から片道30分くらいのところにある公園まで、散歩して行こうと思う、今年はまだ桜を見てないし。
踏み切りを渡って、ずっと緩い登りがつづく一本道を、だらだら歩いてのぼる。空一面グレーの雲がかかっている。すぐに暮れそうでなかなか暮れない。夕方の散歩にはいい季節。これで花粉さえ飛んでなければ。途中にある都立高校のグランドに、白い花をつけた大きな木が数本生えていて、薄暗いグレーの空の下、一際鮮やかに浮き上がってみえる。
公園に着く。桜はもうかなり咲いている。入り口附近で、猫に餌をやりながら、その猫の頭を木の枝で殴っているアヤしいおっさんがいた。少し進むと、いちゃついているカップルと、その正面にカップルに背を向けてベンチに座って、どこか中空の一点を見つめたままピクリとも動かない初老の男性。ちょうどその間を歩いてさらに奥へ。
公園の奥では、かなりの人数の花見の人があちこちでビニール・シートを敷いて盛り上がっていた。まだ時間が少し早いせいか、大学生くらいの若いグループが多い。もうすっかり出来上がってる様子。いつもここら辺で遊んでいるらしい小学生のグループが、自分達の場所をとられ、隅の方で、なんだよお前ら、という感じでそれを見ている。さらに先には屋台も沢山出ている。
もう5時を過ぎているので閉門している、公園内の野球場の門を乗り越えてなかに侵入する。誰もいない観客席。三塁側のスタンドから見ると、バックネット裏から一塁側スタンド、外野席にかけて、その向こうに桜の花が、紫ががったピンクの霧がかかったようにだーっと繋がって拡がっているのが見える。ちょっと凄い景色。人はいないし、静かだし、広いし、とても気持ちがいい。遠くからカラスの鳴き声にかき消される程かすかに、花見客たちの喧噪が聞こえる。本当はグランドにまで降りようと思ったのだけど、まだ管理事務所の明りがついていたのでスタンドまでで我慢することにした。それでもそこでしばらくぼんやりしていると、管理人に見つかってしまったので、走って逃げる。急いで、閉まった門を乗り越えようとしたとき、全身の筋肉の衰えをすごく感じてしまった。こういう時の、走ったり、何かを乗り越えたりする身体運動というのは、単純にとてもいい感じなのだった。でも、それがジョギングのようなものになると、全然違ってしまうのだった。
その近くの、住宅の建築現場で、廃材をドラム缶で燃やしていた。パチパチ跳ねる炎。もう随分暗くなってきた。遠くに公園の屋台の光り。帰りに公園のなかを突っ切っていると、道じゅうにぶら下がっている提灯に、いきなり灯りがともった。すっかり縁日って感じ。ついつい綿菓子なんか買ってしまう。でも、どこか調子っぱずれにトーンが高い、酔っ払いたちの喧噪だけで、ピーヒャラ、ピーヒャラいう音がないので、何となく寂し気。
そこだけ灯りがなく、ぽつんと取り残されたような場所に、お稲荷さんの祠があった。暗いなかで見ると結構恐いものがある。周りは、川俣正の初期作品のような、スカスカな垂木を組んだもので覆われているだけ。
ぶらぶらと、ゆるやかな坂を下って帰る。