ぼくはこの日記で一体何をしようとしているのか。ぼくにとっての住居空間(そのなかに居ざるを得ない空間)を見つづけ、その無意味で些細な点を、常に観測し、手で触り、匂いをかぎ、それを読み取り、記述しようとしているのか。しかしその記述は何処へ向かっているのか。ぼくは絵画作品をつくるときでもそうなのだけど、何かを表現しようという感じが全くといっていいほどない。つまり他者への効果を期待して、ものなり記号なりを、加工したり配置したりという感じがない。(主張したり、押し出したりする力がない)そこでしているのは、自分がいる空間内で起こる、自分の身体動作や視線(感覚)や思考を、それが発生するその都度、まるで他者のもののように発見し計測するということの積み重ねでしかない。
自分の身体動作や視線(感覚)や思考を他者として発見し計測するということは、結果として実際の他者を排除するということになる。つまりそこには『他者』が登記される場所がなくなってしまう。(とは言っても、ぼくもこの社会のなかでなんとか普通に生活している訳だから、日々、対人折衝を行っているのだし、他者の反応を見て自分の行動を決定したりするし、作家として自分の作品の反響は気になったりする。でも、どっかでそんなことをどうしても信用できないでいるし、作品の反響は、作品の製作に全くといっていいほど反映されない。他者からの評価は、気にはなるけど信用しない、というのはあまりに傲慢な言い方だけど。)それはぼくが他人の影響を受けないということを意味するのではなくて、むしろぼくは平然とモロに影響されるのだけど、それはぼくが気候や季節、その場所などに決定的に影響されてしまう、ということと同じようなことでしかないみたいだ。
例えばセザンヌセザンヌがいかに孤独であったとしても、彼はいつも抽象的な誰かと一緒に世界を見ているという感じがあって、だからこそ彼は、想像的な他者へと向けて作品を送り出し、自分の視線を他人と共有させようとする。だからそれを観る観客も、作品を見ることで『誰かと共に世界を見る』という幻想を持つ事ができる。その時、観客は他人がつくったものをそれが表象でしかないことを一瞬忘れてしまうことで、作者の位置と同一化しようとする。
しかし、セザンヌにはそのような同一化を拒もうとする傾向もあって、その傾向は絵画を物質にまで還元してしまいそうになるし、表象は、瓦礫のように崩壊する寸前にまで追いやられる。その時、セザンヌのもっている『誰かと共に世界を見る』という幻想は(おそらく絵画の物質性によって)自ら否定され、その時、誰かに向かって送り出されるものとしての作品は解体し、その作品は、観客が自分自身の視線で、しかもその視線を他者として対象化しながら観て、それを観る一回ごとに読み直され計測し直されなければならない、というものとなるだろう。
こういう感じは、簡単に言ってしまえば、共感や感情移入の否定(否定というより、不能と言うべきか)ということで、まあ、自閉症的な感覚だと言える。でも、自閉症神経症から徹底して解放されている、とも思う。