Oさんがどこかから拾ってきた『大日本樹木誌・巻の1』という本を見せてもらう。本の形は歪み、表紙は変色した上にぼこぼこ、紙質は黄ばんでべこべこ、染みだらけ。奥付をみると、大正拾壱年拾貳月貳拾日・発行となっている。78年前。発行所の成美堂書店の住所は、東京市日本橋。ずっと手に持ってページをめくっていると、何か手がかゆくなってくるような手触り。
しかしこの本、中味をぺらぺらめくって見ただけてで、すっかり気に入ってしまう。これは植物の分類学の本で、一冊にびっしりと大量の植物の細密画が載っている。これが素晴らしい。
決して画家によって描かれたものではないと分る、この絵の、細部へのこだわりと分類への情熱。その過剰さは半端じゃない。近代的な絵画空間とは異質の、独自の博物学的に秩序だった(しかし何という秩序 ! )描写の凄さ。しかもとんでもない量というか種類。
すべてペンによる細くて堅い線で丁寧に描写された、あくまでクールな図。細部への過剰なまでの耽溺といっても、それはただ細部へと溺れてゆくというのではなく、勿論、博物学的な分類という目的があってのことなのだけど、それにしても、これは・・・。
この一見クールな学術的視線は、途方もない狂気じみたものによって支えられているとしか思えない。
ただ目の前にあるものを淡々と描写する、ということの異様さ。葉の形、特徴、茎からの付き方、花弁の形、数、実の付き方、茎や枝の伸び方、等々の、微妙で豊かな差異が、ひとつひとつ丁寧に拾われ、描写されてゆく。しかもこれは『巻の1』であって、一体こんなのが何冊あるのだろうか。この本の約半分が、つつじ属て占められているのだけれど、つつじ属だけで150枚にもおよぶ細密画が、ページの半分以上を占める大きさで掲載されている。それらは確かに皆似ているのだけど、しかし細かい部分においては驚くほど違っている。この、つつじ属の植物の豊かなバリエーションをみているだけでも、めくるめくような世界の多様性、といったものを感じ、クラクラとしてしまう。本当にいくら見ていても飽きない。
例えば、デューラーのデッサンのような『ほらほら、俺ってこんなに凄げーんだぜ』『こんな事まで出来ちゃうもんね』といった、鬱陶しい自意識というか自己主張など、これらの絵(というか図)からは全く感じられず、ただ、匿名の人たちの、世界の細部をできるだけ正確に認識し、それを記述しようという意志があるだけだ。ただ、目の前にあるもの、目の前に起こっていることを、驚きと震えをもって受けとめ、それをできるだけ繊細に描写しようとすること。
ぼくがあまりにも『この本、凄いですよ、ほら、これ見て下さいよ、うわ、すげー』とか言ってるので、Oさんはこの本をぼくにくれたのだった。というか、強引にもらってしまった。
Tくんと数日前の日記について話す。自閉症的な感覚について。ぼくの勝手な解釈による、自閉症への憧れのこととか。『自閉症はマテリアリズムである。自閉症は反人間主義である。自閉症は人間的なものに捕らわれずに、コズミックなものへと開かれている。人間的な共感や感情とは別の仕方で(その外で)、世界に対して開かれ、様々なものごとと関わるのだ。』とかなんとか、そんな風な、ほとんどいいかげんなホラ話みたいなこと。