強い光。竹薮に竹の子。竹の子を掘った穴。竹の葉が風でさらさら鳴る。まだらな光が揺れる。
《昨日の補足》
『アイズ・ワイド・シャット』について、妻の言葉によって亀裂の入った世界が、結局また、妻の言葉によって繕われてしまう、つまり、この映画は言語的な単一のシステムの外に少しも出る事が出来ていないのではないか、とか、結局これは、男の不安定な内面の話として纏められてしまっているのではないか(つまり、ここでも内面という単一のシステムに回収されてしまい、その外側がない、ということだろう。)、という批判を読んだ。
それに比べ、例えば『シャイニング』では、男の狂気を外在化するメディアとしてタイプライターというものがあり、それによって狂気は内面としてではなく、同じ言葉がびっしりと打ち込まれている何十枚もの白い紙、のように具体的な物質として形象化され、外に流れ出す、と。
確かにそれは言えていて、『シャイニング』の広いロビーに響くタイプを打つ音や、あの同一の単語の無数の羅列は本当に恐かった。(というか、『シャイニング』で恐いのはそれだけなんだけど。)それに比べ『アイズ・ワイド・シャット』は、ひとつひとつのエピソードやその演出にも大した工夫もないように見えるし、ごく普通にさらさら時間が流れてしまうようにも見える。
でも、ぼくは、『シャイニング』のスタイリッシュで形式主義的な退屈さより、『アイズ・ワイド・シャット』の、そもそもそのような形式を制御する《作家》という統覚を放棄してしまったかのような、壊れた感じのする退屈さの方がずっと貴重だと思う。
『アイズ・ワイド・シャット』のキューブリックがそれ以前と決定的に変化しているのは、『時間』についての感覚、あるいは『時間をもたせる』ということについての感覚だろうと思う。以前なら、奇抜な視覚的な効果や小道具、斬新な編集や説話の構成、目新しい題材、などを次々と注ぎ込まなければ時間をもたせることが出来ないと考えていたのだろうけど、『アイズ・ワイド・シャット』ではそれが明らかに弛んでいる。ニューヨークの町並みを再現したというセットも少しも奇抜なところがないし、怪し気な乱交パーティーのシーンだって、現代の観客があの程度のことで驚くとはまさかキューブリックだって思ってはいないだろう。むしろ細部が突出するのを嫌って、全体を凡庸に均して平たんにしたとさえ思える。しかしそれが全体として見事な統一感をもっているという訳では全くない。普通のショットを普通に撮って、普通に繋げる、でもそこに普通を普通として成立させている何かが欠けている、という感じ。
確かに説話的にみれば、『アイズ・ワイド・シャット』は、妻の言葉によって揺らいだ世界が妻の言葉で回復するという、男の内面の話にしか過ぎないのだろうけど、しかし本当に男の世界は回復したのだろうか。あの、決して狂気にまでは至ることのない、トム・クルーズの薄っすらと狂気じみた中途半端な表情。妻の許しの言葉で、とりあえずは決定的な破局だけはのがれたものの、破局を逃れたということ、狂気にまで至らないということは、薄っすらと狂気じみた中途半端な表情が、今後もずっと持続するということでしかないのではないか。そういう時間。