《・・・こんなに凄く川の水が増えたのを見たのは、二十年ぶりのことだと興奮した声で言い、二十年という時間がどれくらいの長さなのか、むろん想像することなど出来はしないのだけど、あの降りつづいた雨は、そう滅多にあるわけではない凄い大雨だったのであり、汽車の窓越の眼下にあふれてうねっている荒々しい灰色の川を見るのは、「今」の次に二十年先のことなのだと考えると目まいのするような、興奮と緊張の混じった変な気持ちになって、黙ったまま、汽車の窓ガラスに顔を押しつけるようにしてあふれる水を眺めつづけ・・・》(金井美恵子『噂の娘』)
このごろ、こういうのにやたらと反応してしまうのは何故だろう。作品のなかに流れる時間と、その外側の時間の、落差というのかズレというのか、あるいは、その両者の不意の一致とか接続とか、混じり合いとか。それは表象された時間と現実の時間、という風に図式化されるのとは、ちょっと違うんだけど。
もう午前4時頃には空が明るくなりはじめる。しかし、辺りはシーンと静まりかえっている。地面を踏みつける、コツ、コツ、コツという靴の音が響く。4時半頃になると、鳥の声がしはじめて、急にピーピーとうるさいくらい。でも人影は全くない。ずっと遠くまでつづく街灯。4時45分、街灯が一斉に、ぱっ、と消えた。
6時前、人気のない朝っぱらの道路の真ん中で、白い猫と茶色の猫がにらみ合って、ぎゃーぎゃー鳴きわめいていた。静かな朝に、遠くまで響く。サカリがついてるのか、喧嘩してるのか。しばらく見ていたら、どうやら喧嘩みたいだった。
ヤマザキパンの大きなトラックが通り過ぎ、その白い車体に光が反射して、眩しかった。
夜。吉祥寺で『黒沢清論集』を受け取る。帰りの電車のなかで、混んでいて集中できずに、パラパラとカリスマ論などを眺めていて、以前どこかで読んだ黒沢の発言『木の背中は撮れない』というのを思い出す。これはゴダールが『ヌーヴェル・ヴァーグ』の時言った『アラン・ドロンを撮るのも、木を撮るのも同じだ』を受けたもの。ドロンの背中は撮れても、木の背中は撮れない。発言だけを見ると、黒沢の方が断然カッコいい。このインチキ臭いまでのカッコよさ。こんなに黒沢にひかれてしまうのは、何かの罠ではないか、とさえ思えてきた。