『少女革命ウテナ・アドゥレセンス黙示録』

夕方の河原に、コウモリが飛び交う。汗のにおいが流れてくる。くもりの日。やたらとチョコレートが食べたい。
少女革命ウテナ・アドゥレセンス黙示録』幾原邦彦・監督。去年公開された『ウテナ』の劇場版がビデオになっていた。実は、ちらっと観に行こうかとも思っていたのだけど、『アキハバラ電脳組』と2本立て、っていうんじゃあ、なんとなく劇場の空気が淀んでいそうで、敬遠してしまった。今、公開されている『ヴァージン・スーサイズ』とかも、観たいは観たいのだけど、これもまた、別の意味で淀んでいそうで、うーん、という感じ。
(『少女革命ウテナ』については、「よりぬき偽日記」の「Blow My Mind 」のページを参照していただけると、ありがたいです。)
で、『ウテナ』劇場版なんだけど、テレビ・シリーズの映画化の宿命なんだろうけど、テレビ版の失敗したダイジェストに終わってしまっているように思う。そうならない為の工夫は随所にみられて、キャラクター・デザインを変え、登場人物を整理して、人物の関係も多少変えている。主な舞台となる「学園」の舞台装置にも大きな変化がみられる。しかし、それも、同一のキャラクターを使って全く別の物語をつくる、というところまではいっていなくて、中途半端な感じ。
劇場版の変化で最も大きいものは二つあって、一つは、徹底的に受け身のキャラクターで、空であることによって人々を引き付けていた薔薇の花嫁、姫宮アンシーが、眼鏡をとり、アップにしていた髪をおろして、すっかりコギャル風の能動的なキャラクターになっていること。もう一つは、「学園」の中心であり全ての登場人物を縛っている「王子様」が、アンシーによって既に殺されてしまっていること。テレビ版では、自分の意志を持たない囚われの姫であるアンシーに対して、ウテナが行う、主人と奴隷という関係ではなく、友人として同等な関係をつくる為の試行錯誤(とその裏切り)が延々と続けられるのだけど、劇場版では、アンシーは「王子殺し」を自分一人の手ですましてしまっているので、ウテナとの友情の成立という物語は作動できない。王子様との甘い(支配=被支配という)関係のなかに縛られてまどろんでいる女の子が、友情(対等な関係)の成立によってその外へと踏み出す、という『ウテナ』というビルドゥングス・ロマンを支えている最も基本的な物語の構造を、劇場版は捨てている、ということになる。(だから、劇場版では主人公であるはずのウテナのキャラが全然立っていないし、そもそもウテナなんていらないじゃん、という感じになってしまう。そして実際、物語がクライマックスを迎える時、ウテナは姿を消してしまうのだった。)
テレビ版では、王子様という物語に縛られているのはアンシー1人ではない。アンシーを必死で解放しようとするウテナにしても、幼い頃の王子様との記憶(契約)に縛られている。男装の美少女であるウテナの男装は、幼い頃出会った王子様への憧れの倒錯的なあらわれだし、彼女が常に無垢で気高い者としてあろうとするのも、王子様との約束によるものでしかない。それ以外の登場人物たちも、幼なじみの同性への秘められた思いとか、三角関係とか、双子の兄(妹)への近親相姦的な愛情とか、両親からの虐待とか、それぞれ陳腐であるがゆえに強力な物語に縛られていて、そこから自由になるために、決闘によって花嫁を獲得し、それが『世界を革命する力』を得ることにつながる、と信じている。勿論、決闘による『徴し付きの女』の獲得で縛られたものから自由になる、という、『ウテナ』の物語世界を支えている基本構造自体が間違っている訳で、ウテナという存在の行う様々な試行錯誤の連続(と、それに対する批評的なちゃかし)が、次第に世界そのものの間違いを顕在化させてゆく。様々な陳腐な物語を周到に配置し、それが語られ、くり返し語り直されながら、何度も裏切られ、少しづつ穴を穿たれる。世界は微かに軋みだして、そのとき世界にあらわれる僅かな隙間から、ウテナとアンシーは外へと向かってジャンプしようとする。ウテナを縛っている王子様との約束(=オプセッション)は、結果として物語世界の外側へむかわせる契機でもある、という動機の両義性も仕掛けられている。。
テレビ版『ウテナ』はこの過程を、全39話を使って、ゆっくりと執拗にまわりっくどく丁寧に、語ってゆくのだが、劇場版90分では、そういうことは出来ない。だから結果としてこの映画は、『オタク的な閉域を突破して外へ向かえ』だとか『そんな物語は信じるな』だとか『終わりなき日常を生きろ』だとかその手の、いちいちあんたに言われなくてもそんなこと分かってるよ、と言いたくなるようなメッセージを、声高に発する、というだけのものになってしまっている。もうひとがんばりして、ちょっと違うものを見せてほしかったという感じ。(個人的には、名前忘れちゃったけど、トーガの妹の黄色い服を着た女の子、にもっと活躍してほしかった。あの扱いはないよなあ。)
しかしそれでも、今流行っているサイコ・ホラーなんかを作っている人よりも、幾原邦彦の方がずっと意識的だし、知的だし、批評性がある思う。『趣味』としては、ちょっとついて行きづらいものがあるけど。