蓮實重彦『藤枝静男論-分岐と彷徨』

何年かに一度は必ず読み返す、蓮實重彦藤枝静男論-分岐と彷徨』を読んだ。ハスミの30代後半のまだ若々しい肉体の官能的な震えがそのまま言葉となって脈打っているような論文。いかに蓮實氏が優れた批評家だといっても、こういうものは一生のうちでそう何度も書ける訳ではないだろう。ハスミ的テマティスムが対象に触れるときの繊細な手付きは当然のこととして、その対象(藤枝の小説=言葉)の方が蓮實的存在にへばりつき、ハスミ氏の肉体の最も危うく神経過敏な部分を刺激し、くんずほぐれつ言葉を振動させる。ここではフジエダ的というよりむしろハスミ的な官能性が、かなりあからさまに「でろっ」と横たわるように露出しているように思う。
蓮實といえばすぐに、倒錯的な戦略だとか表層批評だとか口にしてしまうような奴は、このまだ若々しさを幾分かは宿らせた身体によってくり出される言葉のエロ工合というか、あくまで藤枝のテクストに沿って、それを緻密に分析しながらも、自らのエロおやじぶりを臆面もなく辺りに漂わせてしまうこのテクストの微妙な振動を感じることが出来ないのだろう。この藤枝論において蓮實はかなりあからさまに実存主義的であって、言葉の表層的な運動などと言いながらも、これを読むものは嫌でも実在するハスミシゲヒコという肉体の存在を意識せざるを得ないだろう。(フジエダの言葉に反応して振動するするハスミの存在)そしてそれを読む(それに反応する)ぼくの方も、自分自身が肉として存在してしまっていることを意識しない訳にはいかない。このテクストを初めて読んだ十代半ばのぼくは、『藤枝的「存在」における性欲とは、それが徹底して男根の問題、その苛立ちと無償の勃起性の問題であって・・・・』とか『女とは、迫りくる重さであり圧し潰す力として、むなしく勃起する陰茎とは遭遇することがなくなってしまう。』とか『女性は、すりぬけ、逃げさり、遠ざかることで未知の世界への彷徨を強いる不在の影ではなく、むき出しで圧しつけがましい性器そものとしてあり、彼らに「機械的排出」をせまるのだ。』なんていう記述のあまりのリアルさに頭がクラクラしたという記憶がある。(わっ、青春っぽい。若かったって訳だ。)もちろんこんな言い方はあまりに一方的(オコチャマ的)であって、ハスミはその後、藤枝の小説において唯一顕在的な他者である『妻』の、所有されることを拒絶する「裏切り」や「暗い眼つき」について記述することを忘れない。
ここでぼくの言う肉体とは、けっしてロマン主義的な暗い深さをもった肉体などではなく、あくまで外側と触れている傷つきやすい皮膚の表面のことであるのは言うまでもない。それはこのテクストの最初で展開される主に『欣求浄土』を中心とした藤枝的な彷徨者をめぐる記述において明らかだと思う。(個人的な趣味から言えばこの部分が一番好きだけど。)『堅固なはずの地表が不意に露呈する弱さというか柔らかさ』としてある場所。『それ故に平坦であることができなくなって、盛り上がったり落ちくぼんだりする畸形の相貌』をみせる土地へと向かう藤枝的彷徨者は、例えばサロマ湖の『砂州一筋でオホーツク海と接している』場所や『まるで人間の皮膚のどこかに膨れあがった』ような奇怪な姿の昭和新山を目の前にすると『ほおが齢甲斐もなく赤くなる』。勿論ここで、海と接する湖の砂州も、昭和新山の膨れ上がった地表も、赤くなるほおの皮膚も、皆、外側と直接に接している表面であることは言うまでもない。(勃起する陰茎も、たんに隆起する地表と少しも変わらない傷つき易く柔らかい表面=皮膚の一部でしかない。藤枝の小説には、性に目覚めかけた少年が、沼のほとりで睾丸をにぎって立ち尽くす、という滑稽で魅力的なシーンもあった。普通に考えれば、藤枝の小説は陰茎的というよりはるかに睾丸的だとは思う。たんに睾丸の突端としての陰茎。)
夜。明日で終わってしまうので慌てて、澁谷シネ・アミューズへカサヴェテスの『ハズバンズ』を観に行く。30分くらいはやく着いてしまったので、ブック・ファーストを覗く。『ハズバンズ』は凄く混んでいてほぼ満席状態。入場券の整理番号順の入場なのでもっとはやく並んでいればよかった。首が痛くなるようなヘンな席で観た。絶句するしかない映画。映画ってつくづく何でもアリなんだなあと思う。観られてよかった。
帰りに、路上で暴れている男がいた。何かわけの分らないことを叫びながら、店先のカンバンなどを路上に叩き付けて壊したり、店のシャッターに投げ付けたりしている。そのうち道路の中央に出て、走ってくる車の車体に蹴りをいれたり。デンジャー&バイオレンスな雰囲気にちょっとワクワクしてしまう。