近代絵画的なイメージについて(セザンヌ/モネ/マティス)

セザンヌがモネに対して「素晴らしい眼だ。しかし、眼にすぎない。」というようなことを言ったのは、一体、どの時期のモネについてだったのだろうか。一般にモネは、視覚の純粋性に賭けた画家、目の前で刻々と移りゆく光の状態をひたすらに追い掛けた画家、太陽の光が物に反射して、それが大気というプリズムのなかを通って複雑に分化する様をデリケートに追いつづけた画家だということになっている。普通、絵画が対象の形態や固有色を確固としたものとして描くことが出来るのは、それが「そう見えている」ように描くからではなく、我々がその対象について「そのようなものとして知っている」ように描く(構成する)からなのだが、モネはあくまでも「そう見えている」ように描こうとした結果、対象の形も固有色も、果てには対象の意味や存在そのものまでもが光のなかで解体されてしまうような、狂気じみた絵画を出現させることになった、と。例えば丹生谷貴志は、モネが死んだばかりの妻の皮膚の色が変化してゆくのに魅惑されて、我を忘れてそれを描きつづけたというエピソードを引いた後に《モネは悲しみという主観を無視して動きだした自分の眼の自動運動を呪う手紙を書き記しているのだが、ともあれ、モネはほとんど狂気と言ってよい徹底ぶりでその眼からあらゆる主観を蒸発させることに専心していたわけである。》と書くのだが、このようにモネにおける「視覚」を強調するときに忘れられているのは、画家は「見る眼」として存在しているだけでなく、「描く手」としても存在しているのだという単純な事実だと思う。丹生谷氏の言う「眼の自動運動」とはつまり、「手の自動運動」でもある。ごく単純な事実として、モネの晩年に近い作品ほど、それを描いた画家の身体を強く意識させる絵画作品も珍しいのだ。(確かに、初期のいわゆる「印象派」風の絵を描いている時のモネは、多分に視覚的な画家なのだが。)

絵画を「純粋な視覚」として語ろうとするとき、そこでは絵を描くのには「時間がかかる」という単純な事実が忘れられている。眼が捉える刻々と変化する光のスピードに、手は決して追い付くことは出来ない。絵画には複数の層があり、けっしてその表面にあらわれている「一層」だけで出来ているのではない。(つまり複数の質の異なる時間が折り込まれている。)ことにモネの手は、例えばゴッホのように絵具が乾くのを待つものもどかしいというように忙し気に動いているのではなくて、タッチにみられる絵具の粘りや、下の層の絵具とその上にのった絵具との関係等をみると、かなりゆっくりと動いていたはずなのだ。モネは、硬めに錬った絵具をコシの強い筆にたっぷりとつけて、それをゆっくりと動かしていると思う。そしてその時、下の層の絵具は「軽く乾いている」という状態で、上からのせた絵具にほんの僅か混ざり込む、という感じであったはずだ。そしてその「混ざり込む」感触を、モネは眼ではなくて、筆をもつ手の感触で操作していたはずなのだ。モネの、特に晩年の絵画には、視覚的な、あるいは造形的な意味での「構成」というものがほとんど見られないのは確かだろう。しかしそれを、絵画の構造や構成が太陽の光によって溶けて蒸発してしまい、そこに「純粋な視覚」が浮かび上がる、という風に読むのは、あまりに事を表面的に捉え過ぎているように思える。そこには、複数の層を構成的に重ね合わせて1つの平面をつくろうという、横の広がりとは別種の層の「構成」の意志があるし、それに、絵具というたんなる工業製品を、絵画と言える質を持つ「物質」へと変換させるために組織される「手の感覚」の構成があるのだ。モネは確かに、絵画のなかに描かれた対象の固有の意味や存在を蒸発させてしまったのだが、それにとって変わって「光」や「視覚」があらわれたのではなくて、そこには絵具という物質の「質」そのものによって成立する絵画、そして絵具を操作する身体の固有性を浮かび上がらせる絵画、という全く新しい地平を出現させたのだと思う。それは「純粋な視覚」などではなく、むしろ混濁した感覚、視覚によってそれ以外の複数の感覚が呼び出されて混じり合うような場としての絵画なのだ。モネによって画面にのせられた絵具には、まるでモネの身体が混ざり込んでしまっているようにさえ見えるのだ。(だからむしろ、セザンヌの方がモネよりも「視覚的」な画家なのだと言える。晩年、ほとんど視力を失ってから描かれた作品においても、モネは徹底的にモネなのだった。)

例えば映画の画面を見るという時、それはイメージを見るということであって、フィルムそのものやスクリーンそのものを見ることではないだろう。しかし、絵画を見る時、それはそこにあらわれたイメージを見るのと同時に、そのイメージを成立させている基底材そのものをも見るということで、つまり、イメージの組成や構造、「ひとつ」のイメージを成立させている「複数」の来歴を同時に見るということであって、それが「実物」を見るということの意味なのだと思う。だからそこまで見なければ「絵画」を見るということの意味はないのだ。と言うか、人は普通、「視覚的なこと」ではなくて、そういう事こそを「見ている」はずなのだ。例えば人の書いた文字を見る時、その内容と同時に筆跡を見ているはずだし、筆跡を見るというのは、視覚的な形態を見るというよりも、その人が文字を書いている身体の運動性や、その動きのクセのようなものを感じている、ということであると思うのだ。(勿論、同時に紙やペン先やインクの選択のクセ、つまり趣味のようなものも感じているはずだし。)