近代絵画的なイメージについて(セザンヌ/モネ/マティス)

カメラによって撮影されたイメージが、必然的にある「視点」を持たざるを得ないのに対して、絵画には、少なくともぼくが良いと考えている絵画のつくるイメージには、「視点」という概念は必要ない。「視点」という考え方から自由であるはずなのだ。と言うかむしろ、あるイメージが存在するとき、それは必ずある特定の「視点」を持っているはずだという考え方そのものが、カメラという装置によって思考が引っ張られてしまった結果でしかないのではないだろうか。

例えばセザンヌの絵画が、写真や遠近法的に秩序だったイメージに慣れている目から見るとおそろしく歪んでいるように見えるのは、そこに「視点」という考えがないからだ。キュービズムの画家たちは、それを「多視点によるイメージの合成」だと勘違いした訳だが、「多視点」と言うと「ひとつの視点」によるイメージがいくつもあって、それらをバラバラに解体した後に統合するということになってしまうのだが、セザンヌにおいてはおそらく、そもそも「ひとつ視点」というものが成立していないのだ。セザンヌにおけるこのような特色をきちんと理解して継承したのはピカソではなくてマティスであるだろう。マティスの絵画には、視点もなければ対象との明確な距離感もない。(勿論、だからと言って無秩序で混乱している訳ではない。)マティスによる「絵画の平面化」は、視点という概念とは無関係に成立するイメージを構築するために編み出されたひとつの解答としてあるのであって、例えばグリーンバーグ風のフォーマリストが言うような「平面化」そのものを目的としてなされたのではないのは当然のことだ。

マティスにおいてはイメージは、モネにおいてそうだったのと同じように、もはや視覚的な要素だけで出来ている訳ではない。その色彩は、色彩と言うよりむしろ物質としての「絵具の質」として捉えられるべきものだし、絵具の重なり方や基底材との関係、つまりイメージを成立させている組成そのものまでが、「イメージ」のなかに繰り込まれている。例えば、赤い地の上に黒い線がひかれている時、それがあらかじめ赤く塗られた平面に黒で線が引かれたのか、黒く塗られた地に赤い絵具が重ねられ、黒い線の僅かな幅だけ塗り残されたのかによって全く意味が違ってしまう。当然、このような構造の違いを、イメージを成立させる層を一層しか持たない写真図版によって複製することは出来ない。つまり、そのイメージの組成をもイメージの一部として取り込んでいる絵画作品が複製不可能なのは、複製の精度の問題ではなくて、原理的な問題なのだ。

カメラが対象を捉える時、そのイメージはカメラと対象との関係によって、必ず俯瞰であるか仰角であるか水平であるかに分類されてしまうし、その位置関係が対象のイメージそのものに大きな影響を与えるのは言うまでもないだろう。俯瞰で撮られた人間の顔と、仰角で撮られたそれとはかなり印象が異なる。(つまりカメラによるイメージには、必ず対象とそれを見ている目との関係が写り込む。)しかし、例えばセザンヌにとっては、その対象を上から見下ろそうが、下から見上げようが、「それ」を見ているということに変わりがない以上、本質的な問題ではないのだ。セザンヌ静物画では、しばしば画面の右と左とでテーブルの傾斜が異なるし、稜線がズレている。テーブルに置かれた物も、ひとつひとつ見られている角度が異なる。ひとつの対象においてさえ、その上と下とではいつの間にか角度がかわっている。キュービストを始めとする多くの人が、これをいくつもの視点から見たイメージを、ひとつの画面上に造形的に統合して配置したのだ、と勘違いする訳だが、セザンヌにはそもそも、「いくつもの視点」という感覚などないはずだし、複数のものを統合=合成してひとつにするという感覚もないと思う。セザンヌが考えているのは、ひとつひとつのものが、正当にそれ自身としてあらわれるように配置することであるはずだし、それぞれのものがそれ自身であるようなイメージを出現させるように描くことであるはずなのだ。だから重要なのは、目の前にあるひとつひとつのものなのであって、それを見ている画家の視点や画家と対象との関係でも、それを描こうとする画家の造形的な(形式的な)野心でもない。おそらくセザンヌにとってモチーフというのは、その対象との関係を明確に出来ないもの、それを距離をもって眺めたり操作したりすることなど出来なくて、それが存在しているという感覚に画家の身体が貫かれてしまっているようなもののことなのだと思える。(キュービズムにおけるイメージの構成は、絵画というよりどちらかと言うと映画における映像のモンタージュに近い感覚ではないかと思う。絵画によるイメージの構築の感覚というのは、映画などに比べると、ずっと未分化で野蛮で無意識的で、つまりは「幼稚」な感覚なのだろう。)