近代絵画的なイメージについて(セザンヌ/モネ/マティス)

セザンヌの絵画にあらわれているのは、複数の「視点」などではなくて、もっと直接的に複数の(無数の)筆致であり、その筆致がひとつひとつ画面に置かれてゆく時間の長さであり、あるタッチと別のタッチの間にある時間のズレであり、画面に筆を置いてゆく手の(身体の)運動であるのだ。画家は見る眼であると同時に描く手でもあるのだから、見る眼が描く手を導くばかりでなく、描く手の方が見る眼をつくり出しもするだろう。眼と手は、互いに協調して働く訳だが、もともと全く違う原理で動いているのだから、常に小さな違和や齟齬を生み出しつづけてもいる。絵画は、イメージであるのと同時に物質であるというだけでなく、さらに手の運動の直接的な痕跡でもある。プランと呼ばれるセザンヌの不器用な手による筆致は、決して小林秀雄の言うような「自然から聞き取られた純粋な楽音」のようなものではなくて、微妙に調律がズレているしどうしても響きが濁ってしまう楽器の音のようなもので、その独特のズレや濁りがどうしてもその絵画を観る物にセザンヌという固有の身体を想起させてしまうようなものなのだ。ぼくはセザンヌの絵の前に立つといつも、そこにそれを描いているセザンヌの身体の「幽霊」のようなものが見える気がするほど、そのタッチは「ある固有の身体によって描かれた」という生々しさをもっている。(勿論、基本的に絵画は直接画家の手で描かれてはいるのだが、どの絵画もそれを強く感じさせる、という訳ではない。)モネやマティスの絵画も、セザンヌ以上にそれを描いた身体を想起させるものではあるのだが、それは身体的な感覚が絵具のなかに溶けて混ざっているというような感じであるのに、セザンヌにおいては、決してそのなかにとけ込めないというもどかしさと共にある身体として、絵画の「前に」幽霊として立ちあらわれるような感覚なのだ。

セザンヌが素晴らしいのは、決してそこに自然の純粋なハーモニーが鳴っているからではなくて、不純で、ノイズに満ちていて、画面の至るとところに今にもカタストロフィが起こりそうな亀裂が走っているにもかかわらず、ぎりぎりのところで決して決定的な「無秩序」には落ち込まない、というところだと思うのだ。つまりそれこそがリアルな現実なのではないか。例えば岡崎乾二郎は言う。《前に天気予報の話をしましたが、雨か晴れかという予報は間違っていて、確率的にすでにもう何パーセントかは常に雨なんです。それが亀裂でしょう。ところが予言という形態は、それを全部時間的な因果関係に展開しなおして、晴れたあと雨になると言いかえる訳です。》今は晴れて(上手くいって)いるけど亀裂がある以上、そのうち雨(カタストロフィ)がやって来ますよ、というの終末論的な世界ではなくて、常に何パーセントかは雨であるような、確率論的な世界。セザンヌにとって重要な「時間」というのは、因果関係を展開して「物語化」を可能にするようなものとは全く別種の、常に何パーセントかは雨でありつづけるような時間であるのだ。

ぼくが4/13からだらだらと書いてきたことで何が言いたいのかと言えば、つまり「絵画」というものにとって、視覚的な構成はそれほど重要な本質的なことではないし、何かを描くとき、それを描く主体による「視点」(つまりは主体と対象の関係の定位)などという概念は必要ないのだし、そうである以上、絵画はフレーム(あるいは文脈)という問題に捕らわれる必要もないのだ、と言うことなのだ。つまり、絵画をつくったり、それを観たりする時に、「視覚的な構造」や「視点」や「フレーム」という問題に関わったり引っ張られたりしている限り、そこからは大したものは引き出せないのだから、そんな概念はさっさと忘れてしまって、ひとりひとりが全然別のやり方を見つけださなければもうどうしようもない、と言うことなのだ。必要なのは、大層な理想や目的や展望などではくなて、具体的なほんのちょっとした「やり方」でいいの訳なのだが。