保坂和志『明け方の猫』を読んだ

「群像」5月号に載っている、保坂和志『明け方の猫』を読んだ。保坂氏は、ぼくにとってとても重要な小説家だ。でも、ここ数年ははっきり停滞しているように感じていた。停滞と言うのはつまり、保坂氏の現在の関心や感じているリアリティーが、「小説」としてピタッとした適当な形態を獲得するまでには、まだ随分時間がかかるのではないだろうか、という感じのことで、その「志の高さ」に敬服しつつも、しかしあまりにも「小説」というジャンルが(歴史的に)持つ形式的な強制力のようなものを、軽くと言うか甘く観過ぎているのではないだろうか、という疑問でもあった。実際、『生きる歓び』のような小説を読まされると、いくらなんでもこれはあんまりだろう、これを「小説作品」として発表するというのは、芥川賞/谷崎賞作家である自分の「地位」に甘え過ぎなのではないか、と思ってしまうのも仕方がないだろう。しかし、そうだとしてもぼくは当分の間は保坂和志の熱心な読者でありつづけるだろうし、ぼくの目に入るかぎり、新作を追いつづけるだろう。『プレーンソング』や『東京画』や『猫に時間の流れる』といった作品は、それくらいは充分に価値のある作品であると思うのだ。でも新作にあんまり期待はしないけどね。

しかし、ぼくのそのような考えは間違っていた。ぼくは保坂先生をナメておりました。「お見それしました、すいませんでした。」と言うのが『明け方の猫』の一読後の感想だった。

『明け方の猫』は、明け方の夢のなかで猫になった「彼」が、猫の身体と人間の思考をもちながら「夢」の世界を横切ってゆく小説だ。猫の身体によって世界を感じ、それを人間の思考が処理してゆく訳なのだが、夢のなかで新米の猫である「彼」が、少しづつ猫の身体、猫の感覚に慣れてゆくにしたがって、そこには猫の感覚とも人間の思考とも明確に分離できない、それらが混じりあった、ある不思議な厚みと形態をもった「世界に対する感覚/感情」が徐々に形成されてゆく。正直、書き出しはあまり冴えているとは言えず、また保坂的な思考実験の展開を味もソッケもなく記述したものを、「小説」として読まされることになるのだろうか、と少々うんざりもしたのだが、読みすすんでゆくうちにそれが間違いだとわかり、その世界は「小説」と呼ぶしかないような、独自の厚みと抵抗と錯綜と密度とを、つまりリアリティーを、その記述の流れが明確に浮かびあがらせてゆくことになる。

この小説の叙述の流れと、そこに指し挟まれる思考の明滅のリズムは、本当にまるで猫の動きを直接的に想起させるようなリズムになっている。いわば猫の一人称と言ってもいいこの小説においての「視点の移動」の仕方の見事さは、こんなに「猫的」な小説は他にあまりみたことがない、と思わせる程のもので、この、デビュー以来猫の小説ばかり書いている小説家の、猫との付き合いが、尋常でない密度と濃度をもったものであるのだということを、改めて見せつけてくれるのだ。(「彼」という人称代名詞が使われてはいるが、この小説は明らかに一人称によって書かれていて、「彼」という言葉を読む度に、そこに違和感が生気するように仕掛けられている。つまりこの「彼」は本来「ぼく」と書かれるのが自然であるところをあえて「彼」と書かれている訳で、その距離の混乱が、夢のなかでの主体と対象との関係における自由な距離の伸縮、夢のなかでのリアリティーある距離感のようなものをつくり出している。)

猫の描写が優れているのではなくて、描写や叙述の速度やリズムや動きや形態が、「猫化」しているのだ。特に後半、猫と化した「彼」が、猫の身体をかなり使いこなせるようになり、人間的な視覚を中心とした空間把握ではなくて、猫的な主に聴覚と嗅覚によって構築された空間像を獲得することが出来た後の、その聴覚と嗅覚によって組み立てられる遠心的な空間の描き方、描写は素晴らしくて、ついつい立ち止ってそこだけ何度も読み返してしまう。そしてこのような空間把握は、猫的であると同時に、夢のなかでの空間把握ってこうだよなあ、と言うリアリティーももっているのだ。こんなことは言うまでもない当然の事かもしれないが、この小説は、科学的なデータをもとにして猫の感覚を擬人化して記述したものなどでは全くなくて、人間(と言うよりも、ある固有の人物=身体と言った方が良いかも)の身体が感覚する世界と、猫の身体が感覚する世界が、「夢」という領域でふいに重なり合って混ざり合い、そこに誰のものとも言えない不思議な感覚、この小説によってしか立ち上がらないようなひとつの感覚の形態、世界に対するリアリティーのかたちを、「小説という装置」によって、立ち上がらせようとするものなのだ。

この小説は途中で何度も、「これは夢なのだ」というような言葉がくり返し書き付けられているし、「この夢の世界のルール」というような言葉も何度も目にすることになる。つまり読んでいる間じゅうずっと、これはあくまで「夢」の世界での出来事であることが常に意識されるような書き方になっている。しかし、にも関わらずこの夢には「外」がないのだ。すくなくともこの小説の内部においては、「夢の世界」こそが唯一の世界であって、その外に逃れることは出来ない。決して現実に戻ることの出来ない夢の世界、そこから逃れることが出来なくて、その内部で生きるしかない夢の世界というのは、つまりそれこそが「現実」だということだろう。このような世界を考えた時、人は誰でも「カフカ」という名前を思い浮かべるだろう。だいいち、人が猫になるというのは、人が虫になる『変身』と全く同じではないのか。当然、保坂氏が『明け方の猫』のような小説を可能だと思い、それを具体的に構想している時に、カフカという存在がとても大きな支えとしてあっただろうことは疑いがないだろう。しかしこの小説は、基本的にカフカ的なフォーマットの内部にいながらも(内部にいたままで)、そこからどこまでズレて動いてゆくことが出来るのかという挑戦でもあるようなものだと思えるのだから、カフカという名前を口に出すことで、何かが分かった、何かが解決したのだ、と思ってしまうのははっきりと間違いだと言える。

保坂和志という作家は、どう考えても多彩な作家とは言えないだろう。デビュー作からほぼ一貫して、全く図々しいほどの放慢さで、同じような時間の流れ、同じような身体感覚、同じような感情を、くり返し描き続けていると言ってよいと思う。もちろんそれは単調なくり返しではなく、書き直される度にそれらの感覚が新たに検証され直し、新たな形で生み出され直すようにして反復されてきた訳だ。だから『明け方の猫』という小説がカフカ的であるということは、「カフカ的な手法でやってみようか」というような方法的な野心が先にあった訳ではなくて、あくまで保坂的な感覚の追求が、ある地点でカフカ的な形式と出会ったということであって、この順番を間違えて結果だけからものごとを見ると、作品というものの生命は失われて、「奥泉光」的な不毛に、あるいは「高橋源一郎」的な不毛に、陥ってしまうのだと思う。