那須博之『ビー・バップ・ハイスクール/高校与太郎音頭』とデパートの屋上

那須博之ビー・バップ・ハイスクール/高校与太郎音頭』をビデオで。88年公開のシリーズ5柞目。凄く面白い。素晴らしい。基本的には、それぞれの学校で「番」をはっている実力者たちは皆仲良しで、少々荒っぽいじゃれるような喧嘩をたまにしたりはするが、普段は「連れ」たちとダラダラだべっていたり、女の子の後を追い回していたり、授業をサボって屋上でタバコを吸っていたりで、彼らが本当ならばしたくもない「抗争」をせざるをえなくするのは、下っ端の「悪役高校生」の策略による。つまりこの映画(このシリーズ)は、見せ場として「抗争」のような大げさな喧嘩を必要としているものの、全編を流れる基本気なトーンとしては、いかにも80年代的な、お気楽で楽天的な空気、いわば「小春日和の時代」の空気によって支配されていて、リアルな感触としての「暴力的なもの」のザラザラした昏い輝きなどとは一切無縁だし、否応なく「抗争」に巻き込まれてしまったとしても、彼らはどこまでも清々しいほど単純でフェアな人物でありつづけていて、ここには、逃れようもなく、ある政治的な状況に巻き込まれてしまう人物の運命的な「悲劇」などというものも、一切みることが出来ない。しかし、そういう非現実的で甘っょろい、どこまでもユルい小春日和の日射しのなかでこそ、純粋な細部の輝きが、荒唐無稽な戯れを演じるのだ、などといううんざりする程に聞き飽きたような言葉が、この映画(このシリーズ)では何故かとても美しくて貴重なものとして実現されている。この作品は、例えばエドワード・ヤンの『クーリンチェ少年殺人事件』などに比べると、確かに決定的な何かが欠けていると言えるだろうが、しかし少なくとも『クーリンチェ...』と思わず比較してみたくなってしまうくらいには、細部の輝きに満ちているし、貴重な作品だと思える。少なくともここには、雑多なものの輝きを雑多なままで放り出したままにしておく、という姿勢があり、作品の完成度を高めるのを急ぐあまりに雑多なもの(無数のおっちょこちょい)を切り捨てて、作品自体をひとつの「純粋」なシステムにしてしまおうとするような「罠」からは自由なのだ。