保坂和志『明け方の猫』を読んだ

大きく開いた窓の外で、常緑樹の枝に沢山ついた緑の葉が強く吹き付ける風でうねるように揺れて、よく晴れた陽の光や影がキラキラしているのをのんびりと眺めながら、保坂和志の『明け方の猫』を読み返してみた。ゆっくりと少しづつ文字を追い、ちょっと読んでは、顔を上げて外をしばらくぼんやり眺め、また本に目をおとす、といった感じで。読み返してみたら、一読した時に感じた書き出しの冴えないと言うか、生硬でまどろっこしい感じというのは、実は、この小説のかなり異様な世界の設定へと、読者を無理なく誘うと言うかそれを意識させないうちに納得させるために、かなり綿密な計算の上でここに置かれた導入部であることに気が付いた。ぼくはどうしても、この種の「段取り」のようなものを鬱陶しいとかめんどくさいとか思ってしまいがちなのだが、おそらく時間的な配列で何かを表現(説得)しようとする場合、この「段取り」というのが、何よりも重要なことだとさえ言えるのだ。極端なことを言ってしまえば、「物語」というのは「段取り」のことだとも言える訳で、だとすると、物語の無時間的な「構造」を分析することには、大した意味などない、ということになってしまう。

あと、この小説のなかで、視覚は無時間的なものなのではないかという記述があったのだが、それには疑問がある。よく、視覚は一瞬にしてモノを捉えると言うけど、それも嘘だと思う。視覚が無時間的なものに感じられるのは、多分、視覚というものが複数の情報処理をそれぞれバラバラなやり方、バラバラなリズムで並列的に行っているから、例えばAからBになり、BからCになるというように「物語化」(段取り化)されづらく、つまりそこに1本の線としての時間を見いだしにくいからだろうと思う。しかし複数の線としての時間は常に介入しているはずなのだ。確かに目というのは基本的にカメラと同じ構造をしているのだけど、視覚的な情報の処理というのは、カメラが一瞬にしてある視点、あるフレームをもったイメージを定着するのとは全く違ったやり方でなされていて、複数の要素が絶えず結ばれたり解かれたりして動きつづけているのだと思う。例えば向こうからやってくるAという人物に出会ったとき、ある人物が向こうから特徴のある歩き方で歩いてくるということと、それをAという人物だと判定することと、そのAという人物の様子がどうか(元気だとか疲れているみたいとか、機嫌がよさそうとか悪そうとか)ということと、Aの着ている服の色がきれいだということとは、それぞれが違った視覚的要素を違ったやり方で組み立てる(モンタージュする)ことによって構成されるのであって、そしてそれらのモンタージュは時間のなかで解かれたり結び直されたりしながら常に修正されつつ動いているはずだと思う。だから、たとえ対象が不動のものだったとしても、それに対する視覚的な認識は時間とともに解かれたり結ばれたりしつつ動いている訳で、そうでなければ、ただの動かない物でしかない絵画を、長い時間をかけて見つづけることなどできないだろう。(絵画的なイメージが、視点も、固定したフレームももたない、というのはこういうことなのだ。)

それにしても『明け方の猫』という小説は、ぼくが保坂和志の小説なかで一番好きな『東京画』にとても近い感じの小説で、そこにはいわゆる「物語」はほとんどなくて、ただ世界の認識=記述だけがあるようなものだ。(だからこそ一層その認識=記述を配置する「段取り/順番」が重要になってくるのだろう。)ただ世界の認識=記述でしかないものが、何故「小説」として魅力的なものでありうるかと言うと、恐らく、それを認識=記述するある固有の人物=身体の動き方の魅力ということになってしまうのだろうと思う。しかしその人物=身体とは、実際にそれを書いた保坂氏本人そのものとぴったり重なるわけではなくて、そこに書かれた言葉の連なりからその外側へと迫り出すように浮かび上がってくる、ある虚構の人物(作中人物とも作家とも別の人物)の「幽霊的な」身体ということなのだろう。この小説の、人間でもあり猫でもある人物によよって捉えられた、異様なと言うか混濁したな世界にリアリティを与えているのは、このような虚構としてしか存在できない幽霊的な身体の、その存在の力なのだとは言えないだろうか。