国分寺の23GALLERYでやっている「1995-99/加藤泉・展」はとても良かった。ぼくは絵画に関してはすれっからしだし、どうしても難しくコネクリまわすように考えてしまったりしがちなので、絵画を観て素直に「とても良い」なんていう感想が出てくることはめったにないのだが。加藤泉氏の作品は、図像的に言えば、胎児にも昆虫にも見えるような妙な形態の奇形的な人物が、余白を大きくのこしたカンバスに、ヌルヌルッと、ボソボソッと描かれているというもので、こういう風な図像を描く人は別に珍しくはなくて、と言うより「こういう感性」はむしありふれてさえいて、今どき、と言うか、ちょっと前の「ああ、こういうのって流行ってますよね」という感じ(吉田戦車的な感性の形象と言うのか)に過ぎないのだけど、加藤氏の作品がこの手のもののなかで特に優れているのは、たんにイメージの特異さにだけ頼っているのではなくて、それが絵画=物質としてもしっかりと出来ていて、と言うか、こういうイメージが先にあって、それを図示するために絵画があるのではなく、カンバスや絵具という物質と関わりそれらに触れているうちに、必然的にこのようなイメージが浮かび上がってきたのだと思わせるような説得力があるからなのだと思う。イメージが先行するような、イメージの特異さをだけ見せるような絵画作品には、そのイメージそのものを成立させている基底材であるカンバスや絵具という物質に対してあまりにガサツであると言うか無神経であったり、あるいはイメージのために物質をかなり無理矢理に、強引にねじ伏せているという感じが強かったりすることが多いのだが(例えばF・ベーコンなんかだと、こういう強引さをプレザンスの強さだと勘違いさせて見せているところがズルいと思うのだが)、加藤氏の作品は、むしろ物質の物質としての存在感が、うつろなものでしかないイメージの超現実的なリアルさをしっかりと裏打ちしているという感じなのだ。つまり、このようなイメージは「絵画」でなければありえない、というようなものになっているのだ。
この手の特異なイメージで勝負するような作家というのは大抵、あまりに「狙い」がミエミエで嫌らしかったり、あるいは逆に、自分のもっている「天然」な素材にあまりにも無自覚に頼り過ぎだったりすることが多いように思うのだけど、加藤氏の作品は、かなり意識的にしっかりとつくられている(例えばフレームに対する処理の仕方などは明らかに意識的だろうと思える)と同時に、加藤氏にしか出せないような、正真正銘に「天然」であるような雰囲気も醸し出していて、こういうものを作れる人こそが「作家」と呼ばれるべきなのだろうと感じさせる。つまり「絵画」というものが存在するのだ、ということを、アイロニー抜きに示してくれるような作品なのだった。