吉田修一の『最後の息子』(文藝春秋)を読んだ

吉田修一の『最後の息子』(文藝春秋)を読んだ。97年に「文學界」の新人賞をとったデビュー作らしい。この、最近芥川賞をとった作家(訂正、『熱帯魚』で芥川賞もらったとばかり思ってたけど、駄目だったみたいだ。)は、名前だけは知っていたけど、大して興味は感じてなかった。昨日、ビデオ屋に行った時に、狙っていたビデオが皆貸し出し中じゃなかったら、その後ぶらっと古本屋に立ち寄ることはなかっただろうし、古本屋で偶然この本に目がいったとしても、ポイントカードのポイントが貯まっていなかったら、購入はしなかっただろう。そういう偶然と気まぐれから、軽い気持ちで読んだ。

とても良い小説だったので驚いた。しっかりした構成、安定した技術、魅力的な登場人物たち、センスを感じさせる語り口。この第1作を読んだだけで、この人が充分に作家としてやっていけるだけのものを持っているということは誰にでも分るだろうし、売り方次第では結構な人気作家にもなれそうな、良質の通俗性もある。「文學界」は良い新人を引き当てたものだ、という感じ。漫画家で言えば、ちょっと多田由美を連想させるような透明さがある。インテリやくざっぽいやさぐれっぷりも、なかなかキマッているし。年齢はぼくより1つ下、阿部和重と同じ齢。へえ、こういう人が同世代にいたんだ、という感じ。とても良い、とても良いのだけど、でも何と言うか、全てが「小説」というフィルターを通して現れた出来事と言うか、小説の内部で納まった出来事であって、それが一瞬も「揺らぐ」感じがないのが、物足りないと言えば、物足りない感じがする。そこら辺が、もう一歩突っ込んだ興味を感じることが出来ないところなのか。

最後の息子』は、日記を修正液で消しているところをビデオで撮影しているシーンから始まる。そこから回想へ入ってゆくのだが、その回想は書かれた日記によって導かれるのではなくて、ビデオテープによって導かれる。この小説の主な物語=回想は、再生されたビデオの画面という形で語られることになる。ビデオという装置の導入は、たんに今日的な風俗を表すための意匠ではなくて、この小説の構造に深く関わっており、基本的なトーンを決定するものでもある。回想された過去の内部へと一気に入ってゆくのではなくて、あくまで再生された画面を見ているという距離感が、この小説に独自の透明感を与え、かつ、話者であり主人公でもある「ぼく」の醒めた感覚(この「醒めた感じ」はしかし、かなりあやうい均衡によって成り立っているのだが)に明確な形を与えてもいる。小説は、ビデオ装置を媒介とすることで、語る「ぼく」と語られる「ぼく」との間に安定した距離を設定しながらも、要所要所では巧みに記述がビデオ画面から過去そのものの内部へ入り込んだりして、微妙に距離を伸縮、調整しながら物語を語ってゆき、その伸縮を制御する絶妙な運動神経によって、物語を色づけ、独自のトーンをつくりあげている。こういう「距離感覚」のさじ加減は、本当に洗練されていてシャープだと思う。(何箇所か、不用意に子供の頃の思い出を語ってしまうシーンがあるけど、でもそれも「伏線」上必要な事だったりするし。)

ただここで、語る「ぼく」(現在)と、語られる「ぼく」(過去)との距離の伸縮の処理があまりに見事で破綻がないことが、逆に、結局これって上手な「小説」に過ぎないんじゃん、という「嘘くささ」のようなものを感じさせてしまうというのも事実なのだ。「技術」という次元で全てが解決されてしまっている、と言うのか。ここでいきなり阿部和重の『アメリカの夜』と比較してしまったりするのは不当なことかもしれないのだが、語る者と語られる者との距離、そのズレや混乱や分裂による運動性だけで、見事に悲惨で滑稽な「活劇」を成立させてしまっている『アメリカの夜』は、距離のズレや混乱や分裂を決して「小説の技術」の内部だけで処理してしまわない(処理することが出来ない)ということによって、常に何かが揺らぎつづけていて、それがこの小説のスケールの大きさとリアリティにつながっていると思うのだ。

最後の息子』に導入されているビデオという装置は、たんなる意匠ではなくて、小説の構造やあり方そのものに深くかかわっているものではある。しかしそれは、小説の内部のみに関わっているのであって、現実にあるビデオ装置、あるいはビデオによる映像の感触そのものとは、ほとんど通じ合ってはいないように思える。それはあくまで小説のための技術、小説にのみ奉仕するように機能するものであって、ビデオ装置が導入されてしまったことで、小説そのものが揺らいでしまったり、エクリチュールの質に何らかの変化が起こってしまうというのではないのだ。例えば保坂和志の『プレーンソング』には、いつもビデオカメラを持ち歩いていて、その場を撮影しつづけている人物が登場する。『プレーンソング』においては、この人物が撮影した映像は示されることがないし、『最後の息子』のように、ビデオ装置が小説の構造を立体化することもない。しかし『プレーンソング』に導入されるビデオという装置は、ただたんに1人の人物のキャラクターを特徴づけるための小道具などではない。この人物の持っているビデオカメラによって、小説のリズムやエクリチュールの質に、微妙ではあるが絶対的な影響が与えられてしまう、というようなものなのだ。ビデオという、とりとめもなくいくらでも廻しつづけ、撮りつづけることの出来てしまう装置の導入によって、とりとめのない生活をしている登場人物たちの生活の描写に、ふと底知れないオソロシイものが走り抜ける瞬間が招き寄せられていると思うし、そこまで行かなくても、日常的なものの描写が、カメラの介入によって微妙に変質してしまう様を見ることができるはずなのだ。ラストに位置付けられた、あの素晴らしい海岸のシーンの描写などは、ビデオをもった人物の登場によって準備され、それによって初めて可能になったものなのではないかと思わせる。つまり保坂氏は、明らかに現実にあるホームビデオの映像、その独自の時間の感覚やテクスチャーなどに触れていて、それによって何かしら触発されて文章が書かれていることは間違いない、と思えるような小説になっている。一方、『最後の息子』のビデオ装置は、あくまでも小説のために奉仕するものとしてあり、そこから一歩もはみ出すものがないように思われる。つまり吉田氏は、始めから小説をかなり限定された狭い範囲でのみ考えていて、そのことによって、物語を語る時の、安定性や独自のセンスが保障されているというように、どうしても見えてしまうところがある。