阪本順治の『顔』をビデオで

阪本順治の『顔』をビデオで。これは素晴らしい。この映画がテアトル新宿で公開されていた頃、丁度ぼくは新宿で小規模な展覧会をやっていて、何度もその前を通っていて、面白そうだから観てみようかなあと思ったものだったが、結局やめてしまった。こんなことならその時にちゃんと観ておけばよかった。

お話としては、悲惨な話と言えるだろうこの映画が、しかし少しも悲惨な感じがしないのは何故だろうか。作中、豊川悦司藤山直美に向かって、「お前がはしゃいでると、劣等感まるだしって感じで鬱陶しいんだよ」というようなセリフを吐くのだが、しかし実はそういう感じの鬱陶しさとは無縁の映画なのだった。引き蘢りの女が、自分を理解し保護してくれている唯一の存在である母親を失い、妹を殺して、母親への香典をかきあつめて逃亡する。腰を低く落として、がに股でドスドスと歩いてゆく藤山直美。彼女の逃亡の足取りは、寄る辺なく不安げなものであるのだが、同時にどこか解放された感じを観るものに与える。彼女は自分を保護してくれていたものを失って外へと放り出されるのだが、そのことによって、ワケアリの藤山直美が、世の中に点在する無数の「ワケアリ」の人たちと、接触し接続する機械が与えられた訳だ。(逆に言えば、彼女を二階の部屋に閉込めていたのは、母親の理解と愛情と経済力だったとも言えてしまうのだ。)彼女にとっては、母親の死を悲観したり、妹を殺してしまったことを後悔したする余裕などなく、ただその場から逃げるしかないし、逃げつづけるためには、逃亡中に出会う様々なアクシデントを、とりあえずはまるごと受け入れなければしょうがない。つまり、彼女を解放するのは、多分「逃亡」というその切羽詰まった状態なのだと言えると思う。

とにかくこの場所から逃げるしかない、一人で全て上手く事を運ばなくてはいけない、という切羽詰まった状況が彼女をある解放へと導いたとしても、状況が悲惨なことに変わりはないのだし、そこで次々に起こる様々な出来事は、卑小で馬鹿馬鹿しく、冴えないことばかりであるのだが、その卑小で馬鹿馬鹿しい事柄をことさら言い立ててグロテスクな笑いを誘うことも、ホロリとさせる人情話に仕立てることも、監督の阪本順治は周到に避けて、その出来事をそれ自体としてクールに示すことに徹している。ワケアリの藤山直美は、逃亡するなかでまるで不意の事故のように様様なワケアリの人たちぶつかり、何かしらの関係をもつ。しかし互いにワケアリであることから、(それぞれが抱えるそれぞれの「ワケ」によって)その関係は一時のものであり、一瞬の交錯の後に関係は解かれてゆくしかない。監督は、登場人物たちに対しても、過度な思い入れでも、過度な突き放しでもない、絶妙な、即物的な距離感とでも言えるような距離で描いている。(ぼくはここで、スピノザの有名なエピソード、蜘蛛を闘わせてそれを笑いながら見ていた、という「笑い」の視線を思ったのだ。)そしてここで何より素晴らしいのは、このような監督の、キャメラの視線に充分以上に拮抗している、俳優たちの存在であり、演技であるだろう。多くの俳優が、自分自身として「存在している」という抵抗感をカメラに対して示していて(これは「自己主張」というのとは違う)、特に主演の藤山直美は本当に素晴らしくて、周囲の状況や自分の置かれた立場に対して無関心で投げやり(つまり状況から隔絶されていて、反応が「鈍い」)な感じで、自分の身体をかったるそうにズルズル引き摺っているような感じでありながら、どこか不思議な部分で状況と繋がっていて、いつの間にかその状況のなかに入り込んで(順応して)しまう、妙なずうずうしさと言うか、生命感のようなものに貫かれているのだ。この人物は、悲惨な状況に置かれながらも、ほとんど「悲惨」という言葉とは無関係に(つまり「悲惨」なんていうのは、「言葉」にしか過ぎないのだ、という態度で)存在しているような、そんな強さとともにあるのだ。(撮影の笠松則通氏の仕事も素晴らしく、カメラを置く場所にも困っただろうと思われる、ワケアリの人たちの住む、ごちゃごちゃした乱雑な空間の雰囲気を、それぞれに的確に捉えていたと思う。)

ぼくはこの映画を観て、青山真治の『ユリイカ』に対する疑問をさらに深めたのだった。『ユリイカ』であの兄妹が「生きる」ことを邪魔しているのは、結局はあの家に残された財産であり、そして何より2人を保護し、2人のために生きようと決意した役所広司その人の存在なのでないだろうか。あの兄妹が、もっと悲惨で余裕のない生活を強いられていたとしたら、その「悲惨」のなかでこそ、余裕のない状況でこそ、生きることが可能になったのではないだろうか。兄が人を殺さなければならなかったのは、役所広司が保護者として存在する空間(あのペンション風の家や、バス)のなかから、壁を突き破って外へ出たいと願っていたからなのではないのだろうか。『ユリイカ』という映画の、どこか薄皮一枚隔たった感じ、耳に何かがつまってよく聞こえない感じ、即物的なものがグッと露呈する瞬間がない感じ、というのは、そういうところから来ているのてはないたろうか。