松浦寿輝の『官能の哲学』(岩波書店)。この本の中心をなす「修辞的身体」という文章を、大学の頃図書館で初出の本(現代哲学の冒険4『エロス』)からコピーして、何度も読み返した憶えがある。ぼくは基本的には「そういうタイプ」の人間なのだ。でも、今はちょっと駄目だ。『口唇論』なんかにしてもそうなのだが、松浦氏のこの手の文章は、読み始めてすぐ、そのあまりのナルシズムの強さに「うっ」となってしまって、それ以上読みすすめることが出来なくなってしまう。(小説だとすんなり読めるのだが。)だからこの本をぼくは今、第2部と第3部しか読むことができない。
松浦氏はここで、現在の電子的なメディアにおける「イメージ」の「直接的」で「無媒介的」なあり方を批判し、「イメージ」のなまなましさとは、「媒介されたもの」のなまなましさであり、その「間接的」な遠さや隔たりによって、「媒介するもの」の不透明な厚みによって、その抵抗を感じそこへゆっくりと溶け込んでゆく過程において、浮かび上がるようなものなのだ、としている。だいいち、電子的なメディアによるイメージが、「直接的」で「無媒介」なものとしてあらわれるとしても、それは「電子的なメディア」という「媒介するもの」の効果でしかなく、そこには明らかに「媒体」が横たわっているにもかからず、それを隠蔽するような力が働いているとしたら、それこそ危険なのではないか。
ここでの松浦氏の「電子的なメディア」に対するイメージが、あまりに通り一遍なものであり、一方的な「決めつけ」のような気配を確かに感じはするものの(例えばインターネットにおける情報が断片化し拡散してゆくような効果を、『エッフェル塔試論』などにおける「空気」というような主題と結び付けることは可能なのではないか、とか。)、基本的にはこの指摘には納得させられる。確かに「イメージ」が直接性を追求してゆくとすれば、そこにはほとんど反射に近いような「素早い」反応しか呼び起さなくなってしまうだろう。(しかし、ここでも、東浩樹氏の言うような「過視的なもの」という逸脱も起き得るのだ。)この、イメージによる素早い反応がいかに危険なものであるかは、凶悪な犯罪などが起きた直後のメディアの反応や、それにつられて人々が口にしてしまうとんでもなく短絡的な感想などによって、嫌と言うほど感じさせられているではないか。発信と着信の間に分厚い不透明な層を差し挟むこと。その層の内部でイメージがある「遅れ」の時間のなかで乱反射する様を、それが「遅れて」来るまでの時間の差を、「待ち」の姿勢のまま耐えつつじっくりと見守ること。この「遠さ」こそが我々の生きる空間であり、「遅れ」こそが生きる時間でるとさえ言えるのかもしれない。例えばリアリズムにおける即物的な「物質」の露呈は、イメージが直接的に示されることによって発生するのではなく、むしろその「媒体」の不透明な抵抗感によってもたらされるのだった。クールベのリアリズムは、物を見えるままに描写することによるのではなく、むしろ油絵具の物質的な抵抗感を強調することで、つまり視覚的なリアルに抵抗するような形でなされている。
しかしここでさらに重要なのは、この「遠さ」や「遅れ」がけっして一元的なものではなく、我々は同時に複数の「遠さ」複数の「遅れ」のなかにいるのだ、ということだ。一方に近代的な遠さと遅れとともにあるイメージがあり、それと断絶したもう一方に電子的な直接性に訴えるイメージがあるのではなくて、それは同じ場所に同時に、折り重なってあるのだ。(単純に言って、反射による素早い行動が全く起こせないとしたら、我々は生物学的に「生きて」行くことが難しくなっしまうし。)だが、ここで松浦氏は、それを性急に一元化し、絶対化してしまっているようにみえる。「帝国の表象」という文章でカフカの『皇帝の綸旨』という短編を取り上げる松浦氏は、この小説にボルヘス的な閉じられた迷宮のイメージによる解釈をあたえることで、発信と受信の間にある「待ち」の時間(つまり媒介するものの不透明な厚み)を永遠化してしまうのだ。廃墟のような帝国の内部=外部を彷徨いつづけて、決して届くことのないだろう皇帝の言葉を、「夕暮れごとにわが家の窓辺に坐って」待ちつづける「きみ」という形象。松浦氏が「情報論的な早漏」とでも言うべき現在のメディア空間を批判して、このような「永遠の中間」みたいな形象を持ち出してくるのは理解できるが、しかし、永遠に訪れることのないものを待ちつづける、というのは、いくら何でもロマンチックに過ぎるのではないだろうか。誰が永遠に来ないものを待ちつづけることが出来るというのか。「待つ」という不安定な姿勢は、それが訪れるまでの時間が「零」かもしれないし「永遠」なのかもしれないという不確定さのなかでこそ初めて可能になるものなのではないのだろうか。いつ来るか分らない、もしかしたら永遠に来ないかもしれないのだが、すぐに来るかもしれない。待つことはこのような寄る辺無い時間に耐えることであって、そのような時間を永遠化=絶対化してしまうと、それはたんなる神話に成り下がってしまうのだ。「絶対的であり、かつ空虚な唯一のもの」を「永遠」に待ちつづけるのではなくて、バラバラにやってくる複数のものを、その都度それにふさわしい姿勢で「待つ」しかないのではないだろうか。