マノエル・ド・オリヴェイラの『クレーヴの奥方』

銀座テアトルシネマで、マノエル・ド・オリヴェイラの『クレーヴの奥方』。これはもう必見。透明でどこか淡い感じの光のなかで、黒が黒々と輝き、白が繊細に浮かび上がり、白に近い薄い水色がこれ以上ないような美しさで映える。水色の衣装をつけた黒い髪の女が、白いシーツに包まれて今にも消えてしまいそうに弱々しく語りかける母親のベットの傍らに立っている。背景にある家具のシャープで艶のある黒さ。別に何か特別なことをやっている訳では全然ないのだろうと思うのだが、こんなに艶のある画面を最近ちょっと見たことがない。それは勿論、撮影とか照明とかの技術の素晴らしさでもあるのだろうが、それだけではなく、カメラの前に人物をどのように立たせ、どのように動かして、それをどう捉えるのか、についての野性的な嗅覚の持ち主であるオリヴェイラの、恐ろしいほどの眼差しの力によるのだろう。キアラ・マストロヤンニが、ふっと立ち上がる、わずかに身をかがめる、窓の外へ視線を投げる、そのほんも僅かな動きの度に、その場の空気がぐぐっと揺れ、大きく撹乱する。彼女のどんな些細な動きも見逃すことは出来ないという張りつめた緊張で画面を観つづけるしかない。思い返してみても、演出は「あっけない」と感じるほどシンプルなものだ。シンプルと言うより、ほとんど投げやりとすら思える部分もある。(しかし投げやりさすらも「的確」なのだ。)にも関わらずこの空気の濃厚さは何なのだろうか。いや、たんに濃厚な訳ではなくて、スカスカな感じと濃厚さが、何とも言えない妙な形で「あっさりと」同居している。

冒頭の、いきなり「あっさり」とカトリーヌとクレーヴが出会ってしまう(と言うかクレーヴがカトリーヌを見初める)宝石店のシーンを、切り返しと言っても良いだろう2つの構図の単純な交差によって「あっけなく」描いてしまうところから、もうすでにオリヴェイラの術中にすっかりハマッてしまっている。だから次のシーンで母親とその友人が、娘(カトリーヌ)について、思いっきり説明的なセリフをやり取りしていたとしても、もう無条件に受け入れるしかないのだ。その2人のツーショットで示されていた画面が、幾つかのショットを挟んだ後に切り返しになるのだが、その時に友人の方を示すショットの背景には、大勢の観客の姿が映り込んでいて、それまでそこは人影のまばらなカフェかパーティー会場だと思っていたのが、多くの人の集まるコンサート会場であることが判明し、それと同時に、いつ頃から聞こえていたのか、ザワザワという人々のざわめきの音が被せられていることにふっと気付く、という仕掛けになっている。こういう演出が特に目覚ましいという訳ではないはずなのに、このシーンを目にすると、ああ、これが映画なのだ、とほとんど白痴的に動揺してしまう。こんなに単純で些細な事柄が、なぜここまで凄いことになってしまうのか。

しかしこの映画は、ただ些細な事柄を繊細に、かつ濃厚な官能性ととに描いているだけの映画ではない。何よりも「笑える」映画でもあるのだ。何が笑えると言って、妙チキリンなロック歌手が出てきて、それがもう単純に笑えるのだ。この、黒沢年雄を思わせもする、変な帽子を被って、変な靴を履いていて、変なカッコ悪い歌を歌うロック歌手は本当に得難い逸材で、ただもう立っているだけで笑ってしまう。屋敷の玄関のドアを開くと、そこにサングラスに妙な帽子のロック歌手が立っている。たったそれだけで、キアラ・マストロヤンニを中心に成立していた、息づまるほどに緊迫した官能の空気に亀裂が生じ、もうただ笑うしかないという状況になるのだ。一体誰がこの2人の秘められた恋愛などを信じることができるだろうか。しかし、この映画の真に驚くべきところは、その信じ難いことがあっけらかんと成立してしまっているという、恐るべき「雑居性」にこそあるのだ。映画には、このロック歌手のコンサートの模様がかなり長く挿入されるのだが、そのシーンを観ながらぼくは思わずドリフターズの『8時だヨ、全員集合』の劇場中継を連想してしまったほどだ。(オリヴェイラは絶対に「ロック」をナメ切っている。そうに決まっている。)しかしそれでも、このシーンはこの映画のなかできちんと成り立ってしまっているのだ。もっと驚くことは、この映画のなかでも特別に美しいと思われる、仰角で捉えられた窓越し(半透明のカーテンが揺れている)のキアラ・マストロヤンニのショットと、その窓の下で間抜けに突っ立ってるロック歌手のショットが、こともあろうに切り返しとして接続されて交互に示されてしまっているところがあるのだ。えっ、こんなことがあっていいのか。しかし、それはちゃんと成り立っているし、この映画の完成度をいささかも損なわせることがないのだ。いや、それどころか、そういう「雑居性」こそがこの映画の恐らく誰にも真似の出来ない素晴らしさであり、この荒唐無稽で反時代的な構築物のなかに世界のリアリティが「あっけらかん」と顔を覗かせてしまう理由でもあるのだ。恐るべし、オリヴェイラ