サミュエル・ベケットの『伴侶』(宇野邦一・訳)を読んでいた

昨日読んだ(初めて読んだということはないはずなのだが、ほとんど憶えていなかった)ベケットの『伴侶』がとても良かったので、ドゥルーズベケット論『消尽したもの』などををパラパラとめくり返してみていた。

《ときどきイメージを作りだすこと(「できた、私はイメージを作りだした」)、芸術、絵画、音楽にこれとは別の目的がありうるだろうか。たとえイメージの内容はまったく乏しく、実に凡庸であってもよい。(略)イメージとは、時期が到来したときの、視覚的あるいは音声的な、ちょっとしたリトルネロ(リフレイン)なのだ。(略)つまりイメージはその内容の崇高さによって定義されるのではなく、その形態、つまりその「内的緊張」によって、それが発揮する力によって定義されるのだ。こうしてイメージは空白を生み出し、あるいは穴をあけ、言語の拘束を解きほぐし、声のうるおいを乾かせ、みずからを記憶と理性から解放する。非論理的、記憶喪失的で、ほとんど失語症的なちっぽけなイメージが空虚のなかに保たれ、開かれたものにおいて震えている。イメージは1つの物ではなく、「プロセス」である。このようなイメージは物の観点からは実に単純でも、その力能は未知のものだ。》