セザンヌ/「描きつつある時間」の散文性

セザンヌによって実現された絵画によるイメージのイレギュラーな特異性を、セザンヌの「天才」や「気質」に還元してしまうような見方に対しては、違和感を覚えざるを得ない。セザンヌという人は恐らく「天才」などという言葉とは無縁の人であって、どのような意味においても天才などとは程遠い存在であるセザンヌが、天才性とは全く異なる場所においてつくり上げたからこそ、その絵画は真に特異なものなのだと言えるのだ。天才というならばむしろ、同じ後期印象派に分類される作家で言うとゴッホのような人にあてはまる言葉で、最良のゴッホ(例えば「花咲く桃の木(マウフェの思い出)」)においては、その絵画は、ある日ある場所にあったイメージがふいにその時空から切り離されて、現実とは違った次元に貼り付けられるように屹立するような感じなのだ。(非世界的な場所に亀裂のように発生し、そのまま保存されるイメージ。)勿論それが絵画である以上、そのイメージはある具体的な時間のなかで、画面に少しつづ絵具がのせられてゆくことによって徐々に構築されてゆくのだが、しかし出来事としての「イメージの生成」は、そのような「描かれつつある時間」とは関係なく、ほとんど無時間なものとして、いきなり降って湧いたようにあらわれるのだと思う。それに対して、一枚の絵画を仕上げるのに何ヶ月も、時には何年ももかかるというセザンヌの作品は、具体的に、セザンヌが画面の前に立ち、ポツリポツリと散発的に絵具を置いてゆき、モチーフや画面を眺めつつ逡巡を繰り返す、という時間の幅のなかでしか出来上がってこないイメージなのだ。対象を描出する時の光に頼らないやり方、長い時間のなかでも変化しないようなモチーフの選び方、あるいは、移ろいやすい印象派的な絵画を美術館にある古典のようにしっかりしたものにする、と言うような本人の発言などから、しばしば無時間的な(時間によって変化することのない)「存在」の絵画などと呼ばれてしまうセザンヌなのだが、そのような見方(いかにも「存在」好きのヨーロッパ哲学好みのものだ)は、彼の作品が、実際に描くという行為(画面のうえにチマチマと絵具を置いてゆく行為)の積み重ね、ゆっくりと進みゆく、様々な逡巡とともにあるその時間の幅、そして必ずしも思う通りには動いてくれない不器用な手、様々な条件によって必ずしも計算通りの色を出してくれるとは限らない絵具という現実的な「物質」による条件、つまり作品が出来つつある不安定な、そうであるからこそ開かれている時間の持続、それらが呼び込んでしまう、様々なエラーの可能性、そのなかでなされる、偶然も含まれた数え切れない程無数の選択(その選択を行う主体も、時間のなかで刻々と変化してゆくだろう)、というような、決して存在などという目的に一直線に進んでいるなどとは言えない不確定な時間のなかで、徐々に構築される他ないのだという事実を、簡単に忘れてしまっている。(それは決して「存在」へと至るための苦行や修行ではない。その「苦行」が行われている時間そのものを肯定するうなものであるはずなのだ。)

自然のなかに身を置き、自然が彼に「感覚」を通して与えてくるものに導かれ、「感覚」の強度に貫かれ、その「感覚を実現」することによって、「存在」に触れる画家、というイメージは、あまりに分り易すぎて、とても信用することは出来ない。(セザンヌの絵画は、いくら何でもそんなに簡単ではない。)そこでは、あらゆるものが「必然」によって導かれていて、必然の糸を途切れることなく辿ってゆけば、(あらゆる要素が調和した)目的としての「存在」が待っている、ということになってしまう。(だとしたら、セザンヌの見いだした究極の「存在」のイメージは、あの笑ってしまうような、裸の女たちが乱舞する『水浴図』にあることになってしまう。『水浴図』は、絵画=イメージとしては大変に緊張した素晴らしいものではあるが、物語=イメージとしては、初期の作品以上に、失笑してしまう他ないような幼稚な=ロマン主義的なものでしかない訳でしょう。)そうではなくて、セザンヌの絵画のなによりの強さは、「描きつつある時間」というどこまでも散文的な時間の内側に留まり、その不確かさを全面的に受け入れる強度によっているようにぼくには思われるのだ。(そのような不確かさのなかで、画面は、解体と構築、崩壊と生成が同居しつつ震動してる。)散文的な時間とは、天才的な「冴え」によってでは決して解決(解消)できない、どろっとした気味の悪い厚みとしてある。セザンヌの絵画は、「存在」の「深さ」によって際立っているのではなくて、「散文的な時間」の不気味な「厚さ」によって際立っているのだ。