青山真治の『シェイディー・グローブ』/再び

フランス映画祭で『月の砂漠』を観てから(感想はここ)何となく引っ掛かっていて、もう一度見直してみたいと思っていた青山真治の『シェイディー・グローブ』をビデオで観た。これがとても面白くて、以前に観た時とはかなり印象が違っていた。

この映画に登場する人物は全て「イヤな奴」である。好意を感じたり思い入れをしたりすることは出来ない。それどころか、その自己中心的な甘ったれぶりに至る所で不快感を覚えずにはいられないだろう。まず、この映画を観るためには、そのことを受け入れる(闘う蜘蛛を眺めるスピノザのような)「大人の余裕」が必要だ。登場人物に感情移入することが、映画を観ることではないのだ、ということは充分に知っていても、ここまでイヤな奴(しかも荒唐無稽な人物ではなく、いかにもいそうなヤな奴)ばかりだと、もうそれだけでうんざりしてしまうものだが、そこをグッとこらえて一歩引いて見る必要がある。それに加えて、この映画にうんざりするほど頻出する「現代的な物語装置」に対しても、笑ってそれを受け入れる心の大きさが要求されるだろう。携帯電話、双子の妹(或いは宇宙の質量の半分を占める「闇の部分」)、ストーカー、アダルト・チルドレン、探偵による語り、夢のお告げ、世界の外にある失われた理想郷としての「森」....。これらのアイテムが恥ずかし気もなく羅列される。ここで、何て恥知らずな、と怒ってはいけない。これはあくまでもギャグとして受け入れよう。ここまでが、この映画を受け入れるために必要な心構えである。つまりこの映画は高度に抽象的な映画であって、決して「素直な感性」などによっては理解することの出来ないものなのだ。(自分にとって「お気に入り」かそうでないか、という基準でしか映画を判断しない人には、決して理解できないだろう「抽象性」というものがあるのだ。)

この映画の主要な3人の登場人物は、皆、自己中心的で他人のことを考えない。自己の外側で起こるあらゆる出来事を、全く自分にとって都合の良いようにしか解釈せず、そのことを疑おうともしない。自分の言いたいことだけを言い、他人の話には耳を貸そうともしない。と言うか、自分にとって都合の良い話しか聞こえてこないような人物なのだ。このような自己完結した人物が、自己完結したままでも、辛うじてやってゆければ、それは大した問題ではない。しかし、この世界のなかでは、何かが完結しまま(閉じたまま)で成立することなどあり得ないのだ。だから彼らにも危機が訪れる。いや、彼らが閉じているのは常に危機に直面していて、そこから自己を守るため(危機を回避するために)に閉じている訳だが、そのようなやり方ではどうしようもない危機が、彼らを襲うのだ。そのような危機に直面した時にとる行動は、3人ともほぼ同じようなものだ。つまり、相手や場面に関わらずいきなり「真実の告白」をしはじめ、いままで色んなことを誤摩化していたけど、今度だけは本当のことを言いたかった、とか何とか言うのだ。その時、「真実の告白」をされる相手の都合も考えずに。彼ら3人は、皆、自己完結した人物であることには変わりがないが、そのあり方は一人一人で違っている。女は、自分勝手な思い込みでどこまでも突っ走って行動する。男は、自分の意見が受け入れられないとスネてしまって全てを拒絶して閉じこもる。もう一人の男は、自分の身勝手さが社会のあり方と程よくマッチしてして、社会人として適当に上手くやっていけている。恐らく、青山真治氏は、この3人の人物にどのような思い入れもないと思われる。ここには、共感もなければ、こんなんじゃ駄目だ、しっかりしろ、というメッセージもない。青山氏の興味は、このような3人が、この世界のなかで、一体どのようにして関係し、どのように触発し合うのか、という様を、まるで化学反応を実験する化学者のような眼差しで、配合の割合を探り、混ぜ合わせては見つめる、という点にあるのだ。(携帯電話のような、イカニモな現代的な物語装置は、「現代」を表象するためのものではなく、たんに化学変化を誘発する「触媒」として機能しているのだ。)このような高度の抽象性は青山氏の大きな特徴の1つであり、その作品を分り難くさせている要因でもある。(例えば、青山氏には、その物語や企画に対して、全く何の関心もないだろうことがミエミエであるのに、ただ映画に関する「研究」のためだけに製作されたとしか思えない『チンビラ』という作品まであるくらいだ。)

少なくともこの映画においては、青山氏は「責任ある立派な主体」などというものに少しの興味もないように見える。(だからここでは、「病気」が「治癒」されなければならない、とか、「未熟な主体」が「一人前の大人」にならなければいけない、という物語は厳密に排されている。それでも、物型を語るのが探偵=分析医である、という「構え」は外せてはいないのだが。)この世界は、身勝手で雑多な人々がザワザワと存在していて、そのような人物たちが時おり偶然に「つなぎ間違い」のようにして連結されてしまうような場所なのだ、そこで会話が交わされるにしても、それは「創造的な議論」などとは程遠い、ただそれぞれが勝手に自分の物語を一方的に語っているだけなのだ、という認識。それでも、人と人が何かの偶然から衝突すれば、そこにある差異が開かれ、何かしら化学変化のようなことが起こるだろう。重要なのは、人と人が衝突することがある、そこに何かしらの変化の余地がある、という事実であって、その時の「主体」の内実や条件ではないし、互いに理解し合うことでもない。この映画では人と人が互いに見つめ合うということがない。冒頭近くの喫茶店のシーンでも、向かい合って坐る男と女の間には、ワイングラスが入った大きな紙袋が視線を塞いでいるし、女が、助けてくれた男と部屋のテーブルで向かい合う時も、女は何かというとすぐ席を立つし、コーヒーカップばかりを見ている。(男がいつも見つめているのは、女の顔ではなくて、コンピューター画面上の死に別れた双子の妹の想像図である。)男が女に「告白」をするのも、車のなかなので、互いに向き合うことはせず、2人共ただ外を、同じ方向を向いているのだ。だからこの映画では主体と主体とがしっかりと互いを見つめるなどということはなく、男と女が結ばれるのは、2人が同じもの(森の写真)を見つめていたから(つまり変化=結合を誘発する「触媒」の機能によるもの)に過ぎないのだった。

唐突だが、小沢健二において『愛し愛されて生きるのさ』が、『愛し合って生きるのさ』ではないことは重要な意味を持っている。つまりのそこには、君を愛するぼくというベクトルと、ぼくを愛する君というベクトルの、ほとんど偶然と言ってよい一致があるだけであって、「愛し合う」というような一体感は信じられていないのだ(プラトニズムの否定)。ぼくには、君がぼくに対して見ているものが何なのかを知ることはできない。君にも、ぼくが君に対して見ているものを理解はできないだろう。つまり2人は全く別のものを見ているのだ、とさえ言えてしまう。それでも「愛し愛される」ことはできる。『シェイディー・グローブ』の森は、恐らく「理想化された内面の象徴」などではなく、それ自体としては何の意味もないただの写真に過ぎないのだが、それを見つめる人物が1人から2人になったことで、その視線の交錯の効果によって立体化された場所だと言えるのではないだろうか。女が森に見ているもの(そこは王子様のあらわれる場所だ)と、男が森に見ているもの(そこは死に別れた双子の妹と出会える場所だ)は、恐らく全く一致などしていないだろう。にもかかわらず、それぞれの都合からであっても、女が森を見るときに、男も森を見るとすれば、その「森」は2人の視線の交点にホログラフィーのように立ち上がるだろう。愛し合うことは出来なくても、愛し愛されることはできるかもしれない。世界とはそのような場所であって、それは希望でも絶望でもない。『シェイディー・グローブ』とは、そういう映画なのだろうと思う。

(どうでも良いことだけど、ぼくは『シェイディー・グローブ』を観ながら、自分でこの映画をリメイクしたいという気持ちが、ふつふつと抑え難く沸き上がってきてしまったのだった。この映画は、青山真治の最高傑作とは言えないにしても、「可能性の中心」に位置するような作品ではないか、とまで思ってしまった。前に観た時から、ほんの1年とちょっとなのに、随分と評価がかわってしまったのだった。)