三人祭、7人祭、10人祭

ウワサの、三人祭、7人祭、10人祭、というのを『HeyHeyHey』で初めて観た。印象は、よく分らない、と言うか、とっ散らかった感じだった。多分それは、テレビの表象能力の問題が大きくて(だから「音」だけ聞くと全然印象か違うのだろうけど)、テレビの音楽番組のカメラというのは、結局メインボーカルを中心にしてショットを組み立ててゆくやり方しかないのに、このモーニング娘。を中心に構成されたユニットでは、メインボーカルという概念が当てはまらないのだ。(例えば、trfとか野猿とかだったら、メインのキャラクターや役割分担がはっきりしているし、おニャンコクラブとかは、いくら人数が多くても、基本的な「立ち位置」が変わることはない。)楽曲自体も、あるひとつのコンセプト(題材とかリズムとか)によってまとまっているだけで、物語的(メロディ的、コード進行的)な流れによるまとまりが希薄で、幾つかの部分の寄せ集めとギミックによって成り立っているようなものだし、ダンス・パフォーマンス(?)にしても、中心という概念を外しているか、あるいは中心点がめまぐるしく移動する(しかも随所に小技を過剰に散らしている)という『LOVEマシーン』以来の流れをさらに押し進めているものなので、撮影するスタッフとしては、何を基準にしてショットを組み立てていったら良いのか分らず、結果、ただダラダラと流れるように移動するショットを、めまぐるしいスイッチングによって適当に繋いでいるだけ、ということになってしまっていて、そこで「何が行われているのか」が、よく掴めないのだった。マニアで、彼女たちの個々のキャラクターや特徴を熟知している人なら、あの映像からでも様々な要素を読み取り、何かしらの物語を構成することができるのかもしれないが、そうではない人にとっては、ただ大勢の女の子がガチャガチャと集まって、グチャグチャと何かやっている、としか見えないだろう。まあ、それはそれで「物量的な」迫力というか、凄味はあるのだけど。たった3人のユニットでさえ、その3人の差異があまり無くて(ファンの人にとっては充分に「違う」のだろうけど。それにしても、3人とも身長や体型が近いし、明らかに差異を消すような方向性で衣装が選択されている。)、メインの役割がめまぐるしく移動するというだけで、カメラはそれを充分に追い掛けることが出来なくなってしまうのだ。テレビというメディアが、「中心のない、同時に異なった動きをする複数の対象」を表象する、という点で、いかに弱いのかがはっきりと露呈されてしまったような感じだった。

モーニング娘。(ハロー・プロジェクト?)による徹底した「探究=実験」が、ついにテレビの表象能力を追いこしてしまった、というのは、たしかに凄いことではあると思うのだけど、テレビにとって「知覚されざるもの」となってしまったアイドルというのは、一体何なのだろうか、と、ふと思う。。(勘違いしてはならないのは、ここで決して純粋な「フォルムのための実験」が行われている訳ではなく、あくまで徹底した「金儲けのための探究」が行われているに過ぎないのであって、しかしそれが結果として、このような「妙な強度」を生み出してしまっているのだ、ということで、そこの部分の引っ掛かりを外してしまう訳にはいかないのだ。勿論、だから駄目だということでは全くない。「金儲け」のシステムから自由である人などどこにもいないのだし。)