池袋のシネマ・ロサで、デプレシャン『二十歳の死』

池袋のシネマ・ロサでやっているデプレシャン・レトロスペクティブへ、『二十歳の死』を観に行く。この、1時間にも満たないデプレシャンの1作目は、ビデオでもう何度も観ているのだけど、ちゃんとスクリーンで観たかったので、出掛けて行ったのだった。ぼくはこの、初々しくもクソ生意気な映画がとても好きなのだ。

例えば蓮實重彦氏などは、デプレシャンをこともあろうにハル・ハートリー(ぼくはこの人が大嫌いなのだ)などと同列に位置付けて、たいしたことのない監督のように扱うのだが、それは恐らくデプレシャンを、ユスターシュとかドワイヨンのような、身体=情動の映画の系列としてみているせいだと思うのだ。確かに、彼の映画には役者の身体が突出してくることもないし、ある驚くべきシーンやショットがある訳でもないだろう。良く錬られた役者の動きが組み合わされて、良く錬られたシーンが構成され、それが良く錬られた配列で並んでいる。身体=情動の映画としてみれば、半端な優等生的な仕事にしかみえないかもしれない。しかしその「よく錬られた」は、決して「良く出来た作品」を目指されてなされている訳ではないのだ。錬られれば錬られる程、何かが歪んでゆく。つまり、デプレシャンはマニエリスム的な作家である訳なのだが(それは『そして僕は恋をする』において明確にあらわれる)、しかしその歪み方は、いかにもマニエリスムといった分り易さとは違って、とても微妙なものだ。

たとえば『二十歳の死』には、異様なくらい沢山の登場人物が出てくる。この映画は、自殺によって死につつある不在の者の不可視の影響が、その周辺の人物=家族や親戚に重くのしかかってゆく様を描く、といったかなり文学的な物語内容をもっているのだが、そのような物語を描くのに、たった1時間弱の映画で、いくら何でもこんなに沢山の人物は必要ないのだ。必要ないどころか、多すぎてテーマが散漫になってしまうし、誰が誰だか分らなくなってしまうという演出上のリスクも大きいだろう。では何故こんなにも沢山の人物が必要だったかと言うと、恐らく、大勢の人物が集まってがちゃがちゃやっているところを、映画はどう表象できるのか、ということこそが、デプレシャンのやりたかったことの中心だからなのだろうと思う。とりあえずはひとつの事件によってその場に集まっているのだが、当然1人1人が違う人物であれば、その事件の受け取り方も、その場へ集まってきた気持ちも、それぞれバラバラであるだろう。ある共通した目的によってその場に集結しているのだが、にもかかわらず1人1人は、結構勝手に動いているのだ。そして恐らく、そういう状況が、デプレシャンにとって、世界のあり方に関するリアリティーの根本にあるのだと思う。.そうでなければ、集まった親戚一同のうちの若者組が、2階の1部屋に集まってガヤガヤと会話を交わすシーンが、あんなにも複雑なカメラの動きやショットの構成で描かれる必要がないのだ。(あのシーンは、単に若い監督が自分の「才気」を示すためのものではない。あれはデプレシャンの作家としての刻印のようなものなのだ。)この映画はだから、1人の不在の死者を負の中心として据えた、その死者の磁力によって構成された世界(いかにも「文学的」な主題だ)とは違うのだ。そのような「よく出た」作品としての秩序からは、絶えずズレつづける複数の自分勝手な人々の運動によって構成されている。その「複数」というのも、それぞれがあくまで個人として描かれるのだが、しかし同時に「群れ」としても見えてしまうような、微妙な人数が選択されているように思う。(アルトマンやタランティーノのような群像劇とは明確に違う。)そして、このような世界は、決して突出した身体=感情=演技によって描かれるのではなく、あくまで丁寧に錬り込まれた演技あるいは演出の積み重ねによってしか示すことができない。

集まった親戚一同の前で、自殺した人物の母親が、息子の自殺は私のせいだ、私は子供を愛することができなかった、などと演じるように発言する深刻なシーンがあるのだが(このシーンではカメラと人物との間にガラスが存在していて、カメラはガラスを挟んで人物を捉えることになる)、その深刻な自虐的語りの途中で母親はそれをふと中断して、誰かに向かって、「灰皿は後ろにあるわよ」とかいうセリフを吐くのだ。そしてその後もつづいた独白が終り、カメラがゆっくりとその場にいる人物の重たい表情を捉えながら移動してゆくと、そのなかに1人、根本まで灰になったタバコを手にしている男の姿が認められる。独白の途中にふと差し挟まれる「灰皿」をめぐる言葉、カメラと人物の間にあって多少の反映をみせるガラス、そしてそのシーンの終りにオチのようにあらわれるタバコ(このタバコの出現で、「灰皿」というセリフからタバコがあらわれるまでの「時間」が微妙に変質する。ここでタバコが遅れて出現することの意味は大きい。)、これらの周到に計算されたものたちが、母親の独白という物語の中心に世界が集中してしまうのを妨げ、複数の方向へと分散=分裂させる。しかしこの力の分散は、決して物語を台無しにするには至らず、物語と共存するのだ。

(それにしても映画館はガラガラだった。同時上映の『舞台の獣』というのは初めて観たのだが、テレビ用にでも制作されたものなのだろうか。いかにもデプレシャン的な群像劇で、まあ面白いのだけど、あまりに技巧的に過ぎ、あまりにシネフィル的に過ぎる、という感じがした。)