実感と幽霊(青山真治/大友英良の対談より)

青山真治氏の著書『われ映画を発見せり』に載っている、大友英良氏との対談に次のような部分があった。

《青山 あとね、DATで現場で音を録るでしょ? それを一回シネテープにあげて、それをもう一回マルチに入れてゆくとそこでもう全然音が違う。聞こえてくるタッチのスピードが全然違っちゃうんですよね。あれはヘンですよ。

大友 フォーカスの当っちゃう音が変わったりしますからね。

青山 だからいろんなメディアをくぐり抜けてくる音と格闘するしかないっていう。》

この本のなかで青山氏がくり返し述べている、「実感」と「幽霊」というのは、恐らくこのような事に関わっている。つまりここで言われている「実感」というのは、決して直接的に手で掴めるようなもの(現実的な対象)ではなくて、上記の「音」のように、複数のメディアを通り抜けてゆくことで(その過程で)、不意に発生したり、嘘のように消えてしまったりするような、これだと指さすように特定することの出来ない「幽霊」みたいな存在のことなのだと思う。つまり「実感」とは、複数のメディアの差異による「効果」に関わっている、と言うか、「効果」そのもののことだとさえ言っていいように思える。(そのことは何よりも複数の時間の衝突や共存にって成立してる青山氏の映画作品が具体的な形としてみせてくれている。)だから何度も「実感」を強調する青山氏の態度を、単純に素朴なものだと(言葉の足りない「作家」の素朴過ぎる言い種だと)受け取るのは完全に間違っている。それと同時に、上記の発言を、「完成」した「サウンド」の細部に対する「こだわり」と受け取るのも間違っているだろう。だからこの発言を受けて、インタビュアーである佐々木敦氏が「実際にそこまでこだわって作っても、これがまた映画館によって違ったりする。」と言っているのは、この対話で何が問題になっているのかを掴み損なっていると言うべきだろう。ここで佐々木氏は、作家の「イメージ」に忠実に「完成」した音が、映画館によっては忠実に「再現」出来ないことを問題としているのだが、勿論それはそれで問題ではあると思う(実際、青山氏は自分の映画がかかっている映画館の音の悪さを批判したりもしている)が、ぼくが感じた限りでは青山氏が問題としているのはそれとは別の次元の事で、現場で生で聞いた音と録音された音、録音された音がある媒体から別の媒体へと移動すること、そして制作・加工している時に聞こえている音と映画館に掛かった時に響く音、それらの間に横たわる不可逆的で決定的な差異のこと、その差異の中間で格闘すること、なのだと思う。そして「実感」というのは、その隙間のようなところから幽霊のように発生してくるようなものなのだ、と。だからそれは、作家の「イメージ」通りの音が速やかに制作され、それが完璧に再現されれば解決する、といった問題とは根本的に異なるのだ。(例えば青山氏は別の文章で自分が感化された音楽について「静かでのろくてすさんだ大音響」と説明しているが、このような言葉にすると、それはもう「イメージ」となってしまい、「実感」ではなくなる、と言えるだろう。)

「実感」はそれが生れてくる場所を特定できないし、何故そのように「実感」するのかという「根拠」をも明確に示すことは出来ない「幽霊」的なものだ。だとしたら、ある作家の「実感」を認めるということは、非常に古臭い「ロマン主義的」な意味でのヒロイックな「作家」という特別な主体をみとめるということになってしまいはしないだろうか。たしかにその危険は充分にあるというべきで、青山真治という映画作家はいつもそのような危険とキワキワな場所で仕事をしているという印象がある。しかし、青山氏の言う「実感」は、やはりそれとは微妙に違っている。青山氏は同じ本の別のページで中上健次が消滅しつつある「路地」を若衆とフィルムで撮影した時の記述を『熊野集』から引用している。

《若衆と私の違いは、映画を廻すのに一方は生れてからずっと路地に住んで来た者らしく、壊されて更地になるので現実の路地を撮ろうとするが、私は他所で住んだ者として見い出した路地を撮ろうとする事だった。見い出した路地とは単にこんがらかった配線の頭を持つ私のなかにある。それは言ってみれば発見する事によって侵略するようなものだった。つまり私が映画に残しておきたいのは小説家が視ることで侵略し発見する事で収奪したただ一人私所有の路地だった。(『石橋』)》

偉大な作家である中上健次氏によって「実感」された「視ることで侵略し発見する事で収奪したただ一人私所有の路地」である物語は、しかし、中上氏という英雄的な確固たる主体=内面によって見い出されたものであると言うよりも、「単にこんがらかった配線の頭」によって妄想のように(幽霊的に)浮かび上がってきたものに過ぎず、複数の配線が、短絡したり混線したりすることの「効果」として産出される「実感」であり「物語」であるのだと言える。つまり中上氏の「頭」とは、それ自体が既に複数のメディアが錯綜したものとしてあり、作家としての中上氏の「大きさ」とは、そのような配線の量と密度と複雑さによるのだ、と言えるだろう。そして、「実感」とは、いかに巨大ではあってもそのような「頭」の内部にあるのではなく、どこでもないような場所、あえて言うなら、内側にあるにもかかわらず外であるような「隙間」にしかありえないのだ、という言い方ではあまりにもあやふやに過ぎるかもしれないのだが。