『群像』2000年11月号/富岡多恵子と松浦寿輝

古本屋でたまたま見つけた『群像』の2000年11月号に載っていた、富岡多恵子松浦寿輝の対談はとても良いものだった。これは富岡氏の『釈迢空ノート』(どんなものなのか全然知らないけど)の完結を受けてなされたものらしい。ここでは特に何か目新しいことや、凄いことが語られている訳ではないのだが、何と言うのか、ある人物が別の人物に会って、「言葉を交わす」ということ、そこにある「緊張ある関係」が生み出されるということ、そういう当たり前の出来事のかけがえのなさが、しっかりと記録されているように思う。松浦氏による富岡氏の仕事に対する評価の言葉から、ごく普通に開始されるこの対談は、すぐに富岡氏からの松浦氏の仕事への、かなり本質的な鋭い批判によって返される。この対談は、一応釈迢空を巡っているのだが、内容としては雑談めいた逸脱や迂回が多く、ゆったりと進められている。ゆったりとした調子で、決して下品に相手を打ち負かそうなどという気配とは無縁に進行しながらも、全体を通して富岡氏が松浦氏の仕事に対して鋭いツッコミを入れ、それに松浦氏が防戦一方で応じている、という感じなのだ。ここで繰り広げられている、まあ、軽い論争と言ってもいいような応酬は、互いに相手の仕事を尊重しつつ、決して不躾にならないような配慮がなされながらも、しかし無駄な遠慮は排してツッコムべき所は容赦なくツッコミ、そしてそのツッコミに対しては適当にはぐらかすことはせず、しっかりと、しかし柔らかく返す、ということが行われている。折口が、弟子に口述筆記させたものを、そのまま一字一句違わずに講義させ、そしてさらにその講義を自分で聞く、という逸話を巡って、それを純粋な自己愛の発露だとする富岡氏に対して、松浦氏はそこに強い権力意識の発動をみる。そこから、折口が愛する者を追っ掛ける「しつこさ」について、それは一種ストーカー的なものでまともな男性の行動ではないとして、それを母親的な権力と結び付ける松浦氏に対し、富岡氏は、たしかに「しつこい」がそれが愛情というもので、ちっとも異常ではないし、それを母親的といわれても困る、と反論する。おそらくこの対立は本質的なもので、たんに折口を巡る解釈の違いではなくて、この2人の、仕事に対する、そして世界に対する根本的なスタンスの相違であるだろう。勿論この対立が、この対談によって解消されたりはしないのだが、それでも互いに相手の話をじっくりと受け取り、返し、細かい部分では変化なども生じるのだ。ここで行われている対話は、仲間同士での、ほとんど荒っぽい愛撫のような自己満足的な論争とも違うし、自分の優位を相手に是が非でも認めさせようという言い合いとも違う。過度に相手に気を使って、お話を伺う、というのとも違うだろう。ここでは、かなり火花が散るような真剣なバトルが行われているのだが、それと同時にバトルをきちんと下品にならないように成立させるための、充分な配慮が行われてもいるのだ。こういう「対談」を読むと、人と言葉を交わすということの貴重さを改めて思い知らされるのと同時に、ちゃんとした立派な大人にならなくちゃ、と今さらながら痛感するのだった。(東浩紀とかには、絶対こういう対談は出来ないだろうなあ、と、ふと思ったりするのだった。)

とても聡明な松浦氏であるのだから、普段、対談などの席でこのような「鋭いツッコミ」に曝されることはあまりないのだと思うが(実際この対談は、ぼくが知っている限りでは松浦氏の仕事に対する最も鋭い批評になっていると思えた)、字面だけで読み取る限りでは、松浦氏は、年上の女性から厳しく突っ込まれるというその状況そのものに、かなり嬉々としていて、歓びさえ感じている様子で、その様子から松浦氏の倒錯性というか、はっきり言って変態っぽさがじわーっと滲み出ていたりしていて、それがまた富岡氏の柔らかいながらもさっぱりと乾いている様子と好対称をなしていて、何やらとても良い感じなのだった。