青山真治監督の『路地へ~中上健次の残したフィルム』

澁谷のユーロスペースで、青山真治監督の『路地へ~中上健次の残したフィルム』。冒頭から、車の中に据えられたカメラが、運転する井土紀州越しにフロントグラスの外の風景を捉えるショットが続くのだが、そのカメラがふいに外へ出て、国道42号線であることを示すプレートの立ってる、山々を望む平坦な土地の風景をフィックスの画面で映し出した時、ぼくは、ああ、これだ、と思ったのだ。つまりこの感じこそが、ぼくが『Helpless』に見た、青山真治という未知の名前と共に発見した風景の「感じ」なのだった。ぼくはその後しばらく、青山真治という監督名を持つ映画のなかに、この風景の感じを探していたのだが、2作目以降の青山監督の映画からは、この「感じ」を見つけだすことはできなかった。そして『EUREKA』に至っては、そこに映し出されるあまりに美しすぎる風景は、まるで書き割りみたいに嘘寒いリアリティのないものにしか見えないのだった。(それでも冒頭のバスの走行のシーンとかは素晴らしかったけど。ぼくは『EUREKA』の悪口をいろいろ書いているけど、この映画が大変面白く刺激的なものであるということに異論はないのだ。しかし、どうしても納得出来ない部分が幾つもある、ということなのだ。)この『路地へ』には、ぼくが『Helpless』で感じた、独特の風景の、空間の把握の仕方が何箇所かで見られて、その度に、ああ、この感じこの感じ、と思った。同じ、青山真治=田村正毅の両氏によって撮影されたにも関わらず、『Helpless』や『路地へ』と『EUREKA』とでは何故こんなに風景から受ける印象が違うのだろうか、『Helpless』や『路地へ』にあって『EUREKA』にないものとは一体何なのだろうか、と、この映画を観ながらずっと考えていたのだが、結局良くは分らなかった。

この映画には、中上健次の故郷であり、その小説の主要な舞台である紀州の風景が映し出されているのだが、実際にその画面だけを見る限り、それは『Helpless』の舞台となった北九州のどこかの地方都市とそれほど変わらないように見えるし、その奥深い山中の道も、ぼくが幼い頃何度もドライブで連れて行ってもらった箱根の風景と大した違いはないように思える。恐らくここでは、いかにも「紀州」という特徴的な風景は周到に排除されているのだろう。しかしこれらの風景はただの風景ではなく、予めテキストによって染めあげられている風景なのだ。ぼくは中上氏の小説のそれほど熱心な読者ではないのだが、一応その代表的な小説は読んではいる。そのような観客にとっては、いちいち井土氏による朗読やナレーションが入らなくても、ひとつひとつの風景から、どうしても中上氏の小説のある部分が想起され、それとの比較で画面が見られるということになってしまうのだ。ここで示される映像は少しも中上的ではない。(中上的映像というのがどんなものだかは分らないけど。)冒頭から、まるでストローブ=ユイレみたいなショットが続くかと思えば、ヴェンダースみたいな、車と列車が並走するショットがあったり、そこにいきなり極めて青山的な風景ショットが挿入されたりする。しかしこのフィルムが『路地へ』と題され、中上氏に関する映画だと知っている以上、これらのショットはあの強烈なテキストと、頭のなかで強引なまでに関連づけられてしまうのだ。冒頭から延々と続く車の走行を見ながら、『枯木灘』の紀州の地理を説明するシーンだとか、秋幸が土方仕事が終わった後にトラックの中から山中の風景を見ている描写だとかを思い出さずにはいられないし、井土氏が車を降りてタバコを買いに行くショットなどでは、いつ何をするにも誰かの目に見られている、という路地についての記述を不意に思い出したりした。この映画が、ひたすらに移動という運動のなかにいる間じゅう、それを観ているぼくも、思い出す限りの中上氏のあの小説のあの場面から、また別の小説の別の場面へと、次々と想起される場面が移動してゆくのだ。勿論、極めて熱心な読者という訳ではないぼくの想起は、記憶の欠落や思い違いや混濁に満ちているのだが、そのような混乱も含めた想起の移動の軌跡や運動が、この映画自身、つまり映像と音響の運動に刺激されつつ、重なり合ったりズレたりするのだ。目の前に提示されている映像は、「まるで中上の小説の世界のようだ」などというものからは程遠いのにも関わらず、それらの映像は中上氏の名所旧跡めぐりであることから、中上氏のテキストの強い磁力の下にある。(ぼくは夏芙蓉というのがどういう花なのか実際には知らないのだけど、画面に白い花がクローズアップにされれば、それはもう「夏芙蓉」でしかありえないと思ってしまう、というくらい強い磁力があるのだ。)だからこの映画は、実際に提示される映像と音響と、それを観る観客1人1人の中上健次の読書体験との間に、それこそ「幽霊」のように浮かびあがるようなものとして、仕掛けられているのだと思う。

しかし、そのような強い中上的磁場がふいに解けて、そこに映っている映像そのものが解放されるような瞬間もこの映画にはあるのだ。その瞬間とは、外でもない中上氏によって撮影されたショットが挿入されるシーンなのだ、と言ってしまうと、それはあまりに図式的な理解になるだろうか。でも、中上氏によって撮られた風景の、何と中上氏のテキストから自由であることか。中上氏のフィルムからは、今はそこにあるのだが、もうすぐに無くなってしまう目の前の愛しい、親しいものたちを、とにかく記録しておきたいという思いに駆られている感じが手にとるように感じられる。(8/9の日記で引用した『石橋』の記述のような感じはないのだ。)いかにも素人っぽい腰の据わらない構図に、セカセカと落ちつかなく動き回るフレームは、あれも撮っておきたいし、これも撮っておきたいというような、ああ、あそこにもあんなものがある、というような、急き立てられるような気持ちのあらわれなのだろう。その映像は、そこに映されている物が、建物が、人が、光が、かつて本当に存在していたのだ、ということ以外のことは何も主張していない、という意味で、極めて唯物論的な輝きに満ちている、とは言えないだろうか。

だとすれば、この映画の終り方はどうしても納得が出来ない、ということにならざるを得ない。ここで、まるで全ての根源であるかのように、中上氏の生原稿が映し出されてしまうのは、この映画の運動そのものを否定してしまうことにはならないだろうか。そして何よりも、坂本龍一氏による感傷的な音楽によって、中上氏の撮影した路地の風景が過度にノスタルジックなものとして見えてしまうのは、納得できないのだ。それは、失われつつあるものを撮影する、という意味で充分にノスタルジックでありながらも、それが断片のまま放置されているということによって辛うじてノスタルジーと拮抗し、そこから逃れているフィルムであったはずなのだ。それを感傷によってノスタルジーの方へ押し戻してしまっても良いのだろうか。青山氏は、自分の映画にとって異物である中上氏のフィルムを、感傷によって飼いならして同化させてしまおうとしているのではないだろうか。