スティーブン・スピルバーグの『A.I』

吉祥寺のバウスシアターで、スティーブン・スピルバーグの『AI』をやっと観た。観ながら、いろいろなものを思い出していた。一度インプットされてしまった「愛」によって、地の果て時の果てまで突き進んでゆくロボット、というのは楳図かずおの『わたしは真悟』みたいだ、とか、プールの水中で1人取り残されるシーンは、岡崎京子の『水の中の小さな太陽』の浮遊したような孤独感がチラッとよぎったし、ジュード・ロウのセックスロボットは中上健次の『讃歌』で性のサイボーグと呼ばれていた主人公イーブが重なってみえた(この小説も、順列組合わせ的な構造によって、システマティックに「愛」を描き出そうとしていた)し、人間が死に絶えた後も、死ぬことが出来ずに、2000年も閉ざされた場所でひたすら祈りつづけているロボットは、いわば黒沢清の『回路』の幽霊たちみたいじゃないか、とも思った。考えてみれば、あの幽霊たちの「助けて」という呻き声と、男の子ロボットの「ぼくを本当の人間にして」という言葉とは、その言葉自体は空虚で全く意味がないものである(もし本当に人間になれたとしても、実は問題は何も解決しない。母親との関係で障害になってるのは、もう1人いる「本当の息子」の存在なのだ。彼がいる限り、母親と2人きりの蜜月はありえないのだ。)にも関わらず、ある回路が作動しつづける限り発せられつづけ決して消えることのない、軋みというかノイズのようなものだという点で、ほとんど同じものだとも言える。水没したマンハッタンのロボット製作者の所で、「自分は特別にユニークな存在でありたい(特別な存在として母親に愛されたい)」という自己中心的な叫びをあげて自分と同型のロボットを叩き壊してしまうシーン(この行為は、生き返った「本当の子供」がロボットに対して意地悪をする事の正確な反復であるだろう)などを目のあたりにすると、何だよ『エヴァンゲリオン』まで動員されるのか、とも思ったり。この映画はこのように様々な要素が混乱したまま詰め込まれ、それが、ここまで歪むか、と思うくらいに歪んだフォルムを描き出している。これは本当に凄い映画だ。

「それがどんなに単純なものでも、一度開かれてしまった回路は、作動しつづける」というような事を、『回路』のマッドサイエンティストである武田真治は口にしていた。つまり『AI』とは、ただただ作動しつづける回路=装置について映画である、ととりあえず言ってみることは出来るだろう。その装置がどんな目的で開かれたか(息子を失った母親へ息子の「代理」として開かれた)、その「愛」の対象が何であるか(勿論、母親である)とは無関係に、一度作動を始めた装置は、本物の息子が再生しようが、母親どころか全ての人間が死滅しようが、全く孤独に動きつづけてしまう。そんなものはただのプログラムに過ぎないと言っても無駄なのだ。一度起こってしまった事件(愛を求めるロボットの生成)は、決してその原因(プログラム)に還元されはしない「余剰」として存在しつづるのだ。ここでスピルバーグにとって興味の対象であると思われるのは、その「余剰」であり、つまり装置の、外界から隔絶された孤独な作動ぶりであって、人間や愛などではない。第一このロボットの愛の対象は「母親」であって母親個人では全くないのだ。(あくまで「ユニークな存在」でありたがるこのロボット少年は、特殊性と単独性とを取り違えている。)だからここに「関係」など発生しようもない。(もしこの映画に「愛」が描かれているとしたら、それは母親によるロボットへの「愛」と「裏切り」であるだろう。母親はこのロボットを、他でもない「このもの」として、戸惑い、受け入れ、そして裏切ったのだ。だいたい「裏切り」の可能性を伴わない「愛」などというものがあるだろうか。)この映画のラストにあらわれる母親は、勿論「母親」の虚しい幻影にしか過ぎない。ここで母親は、父親やもう1人の息子という邪魔ものを排してたった1人であらわれる。そして、このロボットである少年を、少年の語る物語を、どこまでも優しくて空虚な眼差しで受け止め、同じく、優しくて空虚な微笑みを返すだろう。そしてこの全く空っぽで空虚な眼差しや微笑みこそが、彼の求めていた「愛」な訳なのだ。彼は、存在しもしない妖精を2000年も祈っていたのと同じように、存在しもしない母親の愛を受けとめているに過ぎないだろう。この母親は、彼自身の記憶装置によって組み立てられたようなものであり、つまりロボットは自らの物語のなかに閉じ込められたようなものなのだ。しかしこのようなグロテスクさは、装置が孤独に作動している限り不可避なものなのだ。この映画が恐ろしいのは、この映画が終わった後、一度目的を十全に達してしまった後でも、今度こそ本当に何の望みも祈りの対象もない状態で、何もない空白のなかで、このロボットは存在しつづけるのだろうということなのだ。この映画が終わった後に、このロボット少年は、本格的に『回路』の幽霊のような存在になるのだろう。

この映画は、前半と後半でパックリと2つに割れてしまっている。前半、ロボットが捨てられるまでの部分では、物語=演出上の視点は恐らく人間の側にある。最初、あきらかに異質なものとして違和感とともに描かれていたロボットが、愛情がインプットされることによって自然に愛の対象となり、それが息子の再生によって揺らぎ、結果としてロボットを裏切ることになる。ここまでは、人間(主に母親)の視点でのロボットという存在、母親とロボットとの関係が描かれている。もしこの映画に、「関係」とか「愛」とかが描かれているとしたら、おそらくこの前半部分に限られている。ロボットが捨てられて以降は、もうただただ一度開かれた装置が一直線に作動しまくるという話になって、人間の存在などほとんどどうでもよくなってくる。その意味で、この時点で既に人間は絶滅してしまっている、と言ってもいいくらいだ。この映画の分り難さ、捉え難さの大きな原因の一つは、このように映画の真ん中で、視点(狙い)の分裂が起こってしまっている、ということがあると思う。この分裂を平気で放置してしまうところがスピルバーグの凄さであり、リアルさであり、グロテスクさでもあるのだと思う。