「学校の怪談~物の怪スペシャル」から、黒沢清監督の『花子さん』

ビテオで、「学校の怪談~物の怪スペシャル」から、黒沢清監督の『花子さん』。(注意、ネタバレしまくり。)あらゆるショット、あらゆる人物の行動や言葉などが、ただそれとして投げ出されるようにしてあって、それらが特定の「意味」へと収束してゆくことないままで放置してあるような感じがとても面白い。(それぞれのシーンや人物の言動が、物語を構成するための要素としてあるのではなく、ただそれとしてある。それでもそれらがいくつか重ねられると物語は発動する。しかし、それぞれのシーンや人物の言動が物語のなかでどのような位置をしめるのかは、依然として不確定なままであるのだ。)

例えば、登場する4人の人物が何故、わざわざあの廃校になった中学まで出掛けて行ったのか、と言う物語の前提からして、充分に説明されているとは言えない。一応、中学時代に犯して、それ以降ずっと引っ掻っている行いに対する罪の意識を解消するために、「花子さん」を実施する、という目的は分るのだが、その目的は冒頭部分でさっさと済まされてしまっている。まるでそれは何かの始まりでしかなく、これから本格的に事を起こすのだ、とでもいうように、人物たちは大きめの教室に陣取り、パソコンをセットして何かを打ち込んだり、沢山のコンビニのビニール袋のような物を机の上に並べたりしていて、何かが始まりそうな気配ばかりが漂うのだが、彼らは一向に事を起こそうとはしないのだ。何かを共同して行うためにやって来たはずの彼らは、すぐにバラけて、1人1人が思い思いにフラフラしはじめてしまう。

人物同士の関係も不思議だ。一応恋人同士であるとされる男女は、しかし、まるで互いの存在に気付かないかのように行動し、一言も言葉を交わさない。(ケンカしているという訳でもなさそうだ。)中学時代の新聞部の仲間だという2人の女の子(AとB)がいて、Aの年下のカレシであるCがいる。この3人で物語は始まるのだが、3人一緒にいても、言葉を交わすのはいつも、AとBか、BとCであって、AとCという組合わせがないのだ。Cという人物はいわば部外者であって、Aとの関係があるからこそこの場にいるはずなのに、AとCとはまるで両立し得ない異なる次元の存在であって、Bという媒介によって辛うじて同じ場所にいるように見えているだけだ、とでもいう感じなのだ。

そこへ、一番最後にやってきて、一番最初に消えてしまうDという男(同級生)があらわれる。4人は一応、一つの集団を形成しているはずなのだが、この作品では一度も、4人が一同に会することがない。後から来たDは、一対一でしか人と対面しない。と言うか、この作品は4人の人物による集団劇にみえるのだが、実は登場人物たちはそれぞれ一対一でしか人と対応していないのだ。4人のうち、少なくともA、B、D、の3人は「過去」を共有しているはずで、その共有している「過去」によって、この場に集まっているはずなのだが、3人の過去に対する言葉は一致することがなく、だから共通のパースペクティブを持った「過去」が、観ている側に対して明確に示されることはない。AとB、AとD、BとC、BとD、CとD、(AとC、という組合わせはないのだ)という、それぞれの組合わせで語られる過去に関する断片的な言葉は、その都度異なった部分で重なり、異なった部分でズレをみせるので、過去についての「一つの物語」を語り得る地平を形づくる事ができない。彼らを結びつけているのは、どうやら「中学時代にいじめていた女の子の死」という出来事のようなのだが、それについて語られる言葉は一向に焦点を結ぶことがなく、まるで小津の、「あれはどうだった」「ああ、あれはよかったんだ」「そうか、よかったのか」のようなセリフのみたいに、ただ言葉が言葉として行き交うだけで、過去そのものへは全く届かない。加えて、この作品は20分足らずの短さにもかかわらず、何故こんなシーンがこの作品(この物語)に必要なのかよく分らないようなシーンがいくつかあって(たとえば、屋上でDがCに、結婚式の祝儀袋に名前を書いてもらうシーンとか)、そんなこんなで乱反射が激しく、ホラーというより不条理劇に近い様相さえみせている。

しかし、この作品は全てを曖昧に済ませてしまっいる訳でない。物語の不在の中心であり、消失点でもあるはずの、「中学時代にいじめていて自殺した女の子」の「顔」を、学生時代の写真として、具体的にきちんと見せているのだ。見せるべきものは、きっちりと見せる、と言うのが黒沢氏の演出であるとしたら、この作品で、最も「見せるべき」ものだとされているのは、この女の子の「顔」なのではないのだろうか。この「顔」の顕示が、ぼくにはこの作品中最もショッキングなものに思えた。「あいつ、どんな顔してたっけ」とか何とか言って、男がアルバムのページをめくり始めた時、えっ、顔を見せるのか、ここでヘタな顔を見せたら台無しになってしまうぞ、とドキドキしたのだが、しっかりと予想を上回る「顔」を見せてくれるのだ。この「顔」を選択するには相当気を使ったのではないだろうか。ここで「顔」をしっかりと見せることで、人物たちの噛み合わない会話や不可解な行動が上滑りにならずに成立するのだろう。(それを見た者全てを消してしまう、と言う花子さんの顔を示すことは、原理的に不可能である訳だからなおさらだ。)しかしもっと突っ込んで考えると、この「顔」が本当にその女の子の顔である、という保障は、実は何処にもないのだ。過去とも、過去に関する言説とも無関係に、ただ、この「顔」だけがある、のかも。

過去についての登場人物たちの言葉は、「過去」そのものについては全く焦点を結ばないのだが、「過去に対する態度」の違いは明確にさせる。Cは、「花子さん」という儀式によって、過去をすっきりと忘れてしまおうとしているのに対して、Aは、逆に儀式によって「いろいろと嫌な事」を思い出した、これらを都合良く忘れることなど許されない、と言う。そしてDはと言えば、どうやら自分に都合の良いように過去の記憶を書き換えてしまっている気配なのだ。(全く、「歴史」に対する態度というのは、どこでもこのようなものなのだ。)しかし、主体による「過去への態度」がどのようなものであっても、そんなこととは無関係に、「過去」は等しく彼らに回帰してくるのだった。

この作品でまた面白いのは、非世界的存在=幽霊が、複数存在する、ということだ。ここで登場する「花子さん」と「女の子の幽霊」は、全く別のものであって、けっして共同して人間をやっつけた(復讐した)訳ではない、という点を忘れてはならない。(加えてもう一つ、人間には全く無関心な、ただ廃校でウロウロと走り廻っているだけの学生服姿の幽霊もいる。)花子さんと幽霊は、丁度、AとCとが、同じ場所に居ながらも決して「関係する」ことがないのと同じように、たまたま同じ時空に現れた次元の異なる存在であると言える。(AとCと同時に関係し、花子さんと幽霊とを同時に見ているのは、ただBという媒介的な人物だけなのだ。)花子さんは、あくまで花子さんの原理に従って呼び出され、自分の原理に従って作動しているだけだし、幽霊もまた、自身の原理によって出現し作動しているだけなのだ。しかし、これらの2つの非世界的な存在の異質な原理が偶然に重なり、たまたま同時に作動してしまったことによって、人はそこから逃れる術を失ってしまったのだった。つまり、黒沢清氏の言う「運命」とは、世界の原理と偶然とが重なり合う場所に出現するもののことなのだ。