蝉の声は、今、ここという感覚を危うくする

大きな音であたり一面に響きわたる蝉の声は、今、ここという感覚を危うくする。それは、あまりに強く感覚に訴えかけ感情に作用するので、その声を聞いている、今ここと、かつて同じような声を聞いた別の時間、別の場所とを、記憶のなかから招きよせて強引に短絡させ、結び付けるからだ。蝉の声は、まるで空間を埋め尽すように一面に拡がるので、それがある一点から、木の上のある場所に位置している蝉から発せられているのだという感覚が持ちづらく、つまりある音源があり、その音源からの音を聞いているある耳の存在がある、という具体的な位置関係を想定するのが難しい、という事実が、今、ここという「私」の位置を見失いやすくさせる一因にもなるのだろう。

蝉の声という強い同一性は、本来異なるはずの複数の時間や場所を強引に結びつけ、重ねあわせる。しかし、一旦重ねられたいくつもの時間や場所は、その次には同一性ではなく差異を主張しはじめるだろう。それらは、重なりあいながらも、それぞれが明確な差異を持つものであるという自己を強く主張するのだ。今ここという位置を失った「私」は、だからといって「今、ここ」以外のどこか他の時間や場所へと没入してゆく訳でもなく、まるで明確な位置(音源)を特定できないまま空間に染み出すように拡がる蝉の声と同じように、いくつもの異なる時間や場所のなかを(濃度の差はあれ)等しく分散して拡がってゆくだろう。しかし、あらゆる場面に同時に「私」が居るということは、結局それらの場面の何処にも明確な場所を持たないということとほとんど同じであって、つまり「私」はそのとき、どの場面からも排除されていることになり、そのことによって、「私」は「どこにも居ない」という明確な場所を得ることになる、と言えるかもしれない。

今、どこにも居ないという場所を与えられた「私」の居る「ここ」が、なぜ「ここ」であって、いつか、どこかであるような「そこ」ではないのか。なぜ「私」は、いつか、どこかという具体的で明確な場所を得られずに、「ここ」に居て、「ここ」から、いくつも折り重なって明滅する「そこ」への距離を感じていなければならないのか。だって「私」の一部は、実際に「そこ」にまで拡がっているはずではないのか。このようにして起こる、強い引き剥がされたような感情こそが、ノスタルジーと呼ばれるものなのではないだろうか。つまり「ノスタルジックな感情」というのは、このようなメカニズムによって産出されるのではないだろうか。しかし、あまりにも強烈な蝉の声や、強い日射し、ムッとする暑さ等の外的な要素は、ノスタルジーというやや衰弱した感情とは用意には折り合いがつかず、だから、ただクラクラする目眩のような感覚に襲われることになるのだった。