笠井潔『群集の悪魔』/風俗/革命/ラカン/ジジェク(だらだらつづく話)

(昨日のつづきと言うか、補足というか、うだうだと。)古典的な探偵小説においては、探偵というのは実は詩人と対立するような存在ではなくて、散文化した詩人のような存在と言うべきなのかもしれない。詩人が、その神秘的なインスピレーションによって「世界の真実」を明らかにするように、探偵は、その卓越した嗅覚によって痕跡を嗅ぎ出し、明晰な頭脳で推論を組み立てて「世界の真実」を解明する。そこには神秘的なインスピレーションと論理的な思考の違いはあっても、どちらも真実を解明するための特権的な技術(アート)を持った特権的な人物によって「世界の秘密」が解き明かされる、という形態であることに違いはない。凡庸な知性(レギュラーな知)には決して見えてこないだろう真実が、ある特別の知性(イレギュラーな知)によって覆いを剥ぎ取られ、白日のものとされる。賢者がその秘術によって現された真実を否応なく押しつけてくるのとは違い、論理立てて、噛んで含めるように誰でもが分る道筋で示される真実。しかしどちらにしても、颯爽と真実を口にすることのできる、特別な主体が要請されていることに変わりはない。

ところで、鎌田哲哉氏による、スガ秀実氏の『探偵のクリティック』等に対する批判は、(レギュラーな知としての)警察的な知と、(イレギュラーな知としての)探偵的な知という対立には、複数の差異が闘争=論争する場としての「法廷」という次元が抜け落ちている、というところにあった。(参考までに)これは、存在からの「呼び声」は一つではなく複数ある、というデリダ=東的な理屈にも通じるものだろう。いかに探偵という存在が零落した存在であろうと、それが「真実を告げる唯一の存在」としてある以上、それがロマン主義的な超越的主体であることに変わりはないだろう。ぼくはミステリー小説についてあまり知らないのだが、まさか現代のミステリーが、古典的なミステリー同様に「特権的な知性としての探偵」という存在に頼ってばかりだとは思わない。しかし、少なくとも、(現象学的な本質直感によって事件を解決するという矢吹駆シリーズに代表される)笠井潔氏の小説は、事件自体やその背景がどんなに複雑に構成されていようと、それを全面的に解決するのは「探偵」という1人の特権的な主体であるという構えが、崩れる事がない。つまり結局のところ、笠井氏にとって世界とは、ロマン主義的な特権的存在によって過不足なく解明され表象されるようなものとしてあるのだろう、と思わざるを得ないのだ。『群集の悪魔』という小説は、膨大な資料を卓越した構成力で組み建てなおすことで、1848年のパリの姿を立体的に見事に描き出しているのだが、今述べたような笠井氏の視点からだと、この小説のテーマでもある、どのような階級にも還元されない、全くの無名で純粋な砂粒のような個の集まりとしての、「群集」というものを捉えることが出来ないのではないだろうか。(この小説における「風俗」の描出が、お勉強として有効である、という以上の拡がりも厚みみもたないのは、風俗というものが決して特権的な主体に関わるものではなく、「群集」にこそ関わるものであるという事実を笠井氏が掴み切れていないからではないか。)それに「革命」という出来事もまた、ある1つの特別な理念、あるいは一つの視点に還元されるものではなくて、様々な場所で、様々な異なる立場や利害関係をもった人たちが起こした出来事が、同時多発的にあちこちで重なってしまった、ということなのではなかったのだろうか。だからそれを、ある1人の主体内部における、世界と一体になるような高揚感」と重ねあわせるように、例えば次のように描いてしまったのでは、多分駄目だと思うのだ。(次の引用はボードレールの内省として語られている)《美的なものを奇蹟のように実現するには、ダンディズムにおいても、そして詩作においても、高揚した激情と冷たい形式化の意志が、絶妙に均衡していなければならない。二月のバリケードの日々には、それが確実なものとして感じられた。(...)氾濫する大河さながらに膨大な破壊の力が、王政を倒し共和国を樹立しようという民衆の明晰な意志と、だれが仕組んだものでもないのに、見事に均衡していた。》『群集の悪魔』