『nobody』の雑誌版への違和感/クレール・ドゥニへの違和感

昨日、BOX東中野で『nobody』の雑誌版を手に入れた。大絶賛という訳にはいかないけど、それなりに興味深い内容だった。「佐藤公美インタビュー」が載っているというだけでもコアなファンは必見だろうし、まだ公開されていない(近日公開という話も聞かない)『月の砂漠』論(この文章は力作)を冒頭にもってくるあたり、挑発的と言うか、公開に向けて盛り上げたいという熱さが伝わってきて、イイ感じだ。ただ、雑誌全体として「青山真治」という作家を応援しようというのは分るのだけど、これだけ多くの執筆者がいて、みんながみんな声をそろえるように青山真治を誉め、判で押したように是枝裕和を貶す、(そういう印象をどうしても持ってしまう)というのはどういうことなのかとも思う。勿論ここで言われていることは正当なことで、たんなる贔屓のひき倒しでも下らない個人攻撃でもないことは充分に分る。それにしてもなかに1人くらい、『ディスタンス』もそう捨てたもんでもないんじゃない、とか、『ユリイカ』ってホントにそんなに凄いのか、みたいなことをちょっと別の視点から言い出すヒネクレ者がいたっていいはずだと思うのだが。どうしても、ある「場」が強制する「同質化された」価値判断のようなものの気配を、チラチラッと感じてしまう。(例えば、青山氏がまだ無名の監督で、何としてでも人々に青山という作家を認知させるのだ、という意図があるとしたら、このような戦略もアリかもしれないけど。)ある統一された趣味や価値観を「売り」にするような商業誌ではないのだから、1人1人がもっと自分勝手にやった方が面白いのではないだろうかと思うのだった。

ちょっと引っ掛かったのは、黒沢清の『降霊』について書かれた加藤千晶という人の文章で、この文章自体はとても説得力のある面白いものだと思うのだけど、ただ最後に引用されている、『大いなる幻影』についてのクレール・ドゥニの言葉にどうしても違和感があるのだ。引用する。

《私にはとても素晴らしい映画に見えました。その素晴らしさは風だと思うんです。窓の外に木々が見えていて、その葉は風になびいていました。(...)確かに海岸に骸骨が浮かぶシーンは死をイメージさせます。けれども、この映画では常に風という「生」を意識させるものばかりが存在していました。(カイエ・デュ・シネマ・ジャポンHP「パリの黒沢清」よ

り)》

この言葉はカイエのHPで初めて読んだ時にも引っ掛かったのだが、今回この部分だけ抜き書きされているのを読んで改めて違和感を憶えた。ぼくに分らないのは、何故「風」が何の手続きもなしにいきなり「生を意識させるもの」となるのか、ということだ。ここでは「風」一般のことではなく、黒沢の映画で吹いている風にとりあえず限定したとして、それは何より「生」と「死」という対立とは無関係に、ただそこらじゅうに遍在するもののことではなかっただろうか。この文章で加藤氏は、黒沢映画の幽霊について、それは人の心のなかにあるものではなく、人間の意志とは無関係にその外側に「在る」もの、つまり他者であって、そしてそれが質量を持ったもの(=他者)として世界に存在するとしたら、それは視線を持っているはずで、つまり私が幽霊を見るだけでなく幽霊も私を見る、と書いている。幽霊の視線を受けること、幽霊と見つめ合うという緊張感に耐えるということ、それこそが決定的な恐怖であり、同時に世界へと向けられた映画の倫理なのだ、という加藤氏の文章の展開はとても説得力があると思うのだが、それが何故最後にいきなり風=生という図式によって「生の肯定」のような地点に着地してしまうのだろうか。繰り返すが「風」は生と死というシステムの外側に、それとは無関係にただ「ある」ものなのだ。人が生きていようと死んでいようと、そんなこととは無関係に風は吹いているのではいのだろうか。だから『回路』において黒く固着した死を、風はこともなげに吹き飛ばしてしまうのだ。(「風」は『回路』の物語の外側に存在しているのだ。)にもかかわらず「風」を「生を意識させるもの」としてしまうとしたら、それは風を生というシステムに隠喩として従属させてしまうということで、つまり幽霊を「私の恐いと思う気持ち」に還元してしまうのと同じことになってしまう訳で、それは「他者」の存在を、私とは別の存在を、認めないということになってしまうのではないだろうか。