01/9/19(水)

代表(表象)するものと代表(表象)されるものとの間には、必然的で安定した関係がある訳ではなく、それは常に危うくて、ズレや亀裂とともにあるしかない。シニフィアンシニフィエの関係は、恣意的なものでしかない。または、本来何の関係もないはずの2つの映像が「間違った繋ぎ」によって接続されると、我々はそこに「ある関係」を「物語」として捏造してしまう。これらのことは最早、わざわざ指摘するまでもない「常識」ではあるだろう。問題なのは、このような前提が、どのように使用され、どのように機能してしまっているか、と言うことなのだ。(現代芸術というのは、上記のような「常識」なしには成り立たないものではあるが、同じように上記の「常識」を使用してある「権力」を確立しようとする現代的なメディア環境の勢力に対するひとつの「抵抗」としてある訳なのだ。)例えば、ニューヨークのビル倒壊現場で救助にあたる人々の行為を、本来それとは全く関係のない「アメリカの正義」と結びつけ(ブッシュがそこを訪れて演説をぶち、救助活動にあたっているオッサンと肩を組んだりしてみせる)、「アメリカはひとつ」であることを表象するものとして見せつけ、それを報復戦争を「感情的」に正当化する根拠のように使用する。まともに考えれば全く脈略のない強引なこの「間違った繋ぎ」に説得力を与えているのは、感情に強く訴える映像のスペクタクルとしての力であり、張り巡らされたメディア環境の網の目なのだ。

とても刺激的なサイト「妖怪がまだ僕の家のまわりをうろうろしている」(http://plaza19.mbn.or.jp/ ̄wataru16/index.html)に掲載されている『日米多発同時テロに関してマターリ語る』(http://plaza19.mbn.or.jp/ ̄wataru16/terro.html *現在、このページは存在しません。)に引用されていた、酒井隆史氏のギィ・ドゥボールについての文章(『自由論』)をここでも引用(孫引き)する。

テロリズムを契機にした「緊急事態」あるいは「例外状態」が、「捏造の世界化、世界の捏造化」を完成させ、社会の 新しい段階への移行を一挙に可能たらしめた。統合されたスペクタクル、左右の政治家、官僚、企業家、マフィア、メディア、 警察、テロリストなどが――内部に矛盾をはらみながらも―― 一体となって、「既存の秩序」維持のために 共謀する。「人間と自然の諸力を技術的、かつ、”警察的管理”によって絶対的統制へといたらしめよう」 とする権力の思惑の途上で。》

《そのとき国家は嘘をつくが、「あまりに完全に真理や真実らしさとのそのコンフリクト含みのむすびつき を忘却したために、むすびつきそれ自体が抹消され刻々と取り替えられる」。ドゥボールはこうも述べている。 「それは信じられる ように意図されていない」。ディスプレイ上で点滅する情報は、「後になったら忘れ去られるべく意図されている」、と。 情報メディアはこうして欺瞞の装置として完成する。信じられるべく意図されていないのだから、 もはやそこでの情報には「反駁の余地はない」。》

例えば、本当にアメリカが一体になっているかどうかなど、実は誰も知らないしどうでもよいのだ。メディアによる「効果」によって、人々に、「多くの他人がそのように感じているかのように行動するのだろう」、と感じさせればよい。このような問題は、今回のテロと、それに対するアメリカの反応などによって目を逸らしようもなくハッキリと露呈したのだが、しかし勿論それだけで終わる問題ではなはい。戦争が何とか終結したとしても、このような問題は終わらないだろうし、決してアメリカだけの問題でもない。