新宿ピット・インで、カン・テーファン

新宿ピット・インで、カン・テーファン(アルト・サックス)。今回は、ピアノの佐藤允彦、ボーカルのさがゆき、とのトリオ。ぼくはただのカン・テーファン好きで、いわゆるフリー・ミュージックに明るい訳ではないので、的外れな感想かも分らないのだけど、即興演奏家というのは大抵、誰とでも一緒に演奏するという感じがある。初共演であっても、ちょっとした打ち合わせと、サウンドチェック程度のリハーサルで、もう本番という感じなのではないかと推測する。そしてそれが可能なのは、即興演奏家はどこへ行っても、基本的に「自分がいつも追求していること」しかやらないからだろう。勿論、その場の空気には敏感に感応している訳だろうし、他の演奏者の音を注意深く聞いてもいるのだろう。だから、誰かが「ふと発した」ようなフレーズが別の演奏者の演奏のなかに引き込まれるようにあらわれ、それが思わぬ展開をしていったり、ある演奏者の発した「凄い音」が、その後の演奏のなかで木霊のように響いていたり、ということが可能なのだ。しかし演奏者は、「サウンド全体のなかでの自分の位置」とか、その「効果」とか、そういう意識はほとんどないと思われる。サウンドが全体としてどう響くかというのがまずあって、そのなかでの自分の位置があり、それをどう維持しつつ罠をしかけるか、とか、どうひっくり返したり裏切ったりできるか、という考えではなく、それぞれの演奏者は、もう始めからそれぞれ自分の言葉で自分の話をひたすら話しつづけるという感じ。それが面白いところでもあり、場合によっては、うーん、と疑問を感じてしまうところでもある。それぞれの演奏者がバラバラにもっている自分の技や問題意識や関心を、それぞれ固有に追求する複数の人物が同時に音をだしている訳なのに、そこにある「ひとつの曲」というか、「ひとつの演奏」と言えるような纏まりが発生し得るのは、たんにカント的な意味での、先験的な形式としての時間と空間を共有しているから、ということに過ぎないのではないだろうか。つまりその場で一緒に音を出して、それが一定の時間内に納まったとすれば、とにもかくにも「ひとつの曲」であるのだ。

例えば、混んでいる電車に乗るとする。そこに乗っている人たちは、それぞれが全く別の目的を持っている見ず知らずの人々であるだろう。にも関わらず、誰に頼まれた訳でもないのに、後から人が乗ってくれば、奥の空いたスペースに速やかに移動するだろうし、他人と必要以上に密着することを避け、適当な間隔をつくるだろう。奥から人が降りるときには、身体をよじって通り道を開けたり、一旦降りてみたりもする。その電車に乗っている人たちは、その時のその車両という共通の時間・空間にあるということで、まるであらかじめ訓練されたかのように統制のとれた動き方をする。しかし1人1人は全くバラバラなことを考えて乗っているのだし、それぞれが全く別の人生を生きているのだ。適当な例かどうかは分らないが、とりあえずこのような風景を「演奏」の比喩として考えてみると、そこに1人奇声を発する者がいたり、床にしゃがみ込む者がいたりすると、場ちがいに感じて不快になるだろうし、かといって、ただ整然と進行する電車のような演奏が面白いとは思えない。だとすれば、様々な場所でいろいろとアクシデントが発生しつつも、全体としてはスムースに進行する電車のような演奏が「面白い」のだろうか。しかしそれこそが、先験的に与えられた時間・空間という形式に依存した、予定調和ということになってしまうのではないか。(しかし、そこに乗っている1人1人の人物の人生=音を追ってゆくとすれば、それは決して予定調和的なものではないはずなのだが。)

ぼくは今まで何回かカン・テーファンの演奏を聞いているのだけど、今回が一番「聞こえて来ない」感じだった。彼の演奏自体は相変わらず凄いものなのだけど、その特異性が、何かフィルターのようなもので遮られて、前へ出て来ないように感じられた。いや、たんにカン氏は、今回はボーカルのさがゆき氏をたてようと思っていて、ちょっと遠慮がちだっただけなのかもしれないのだが。(前にピット・インでみた、一楽儀光・内橋和久との共演のときの、ノリノリの感じに比べると、どうしても「遠慮」という言葉が浮かんでしまうのだった。)