岡崎乾二郎の『歴史とよばれる絵画』について、あるいは『A.I』再び

●『歴史とよばれる絵画』という文章は、絶妙な配置と接続によって成り立っている。だから、この文章が『A.I』という具体的な映画作品と切り離されて読まれてしまうと、とても危ういことになる。文章の前半、小林秀雄が引用されている場面においては、岡崎氏は『無常という事』というテキストから多くの事柄を引き出しながらも、それに対して一定の距離を崩そうとはしていない。ここでの読みは、繊細であるとともに批判的であると言える。『一言芳談抄』の一節で、現世への思いを捨てて来世での救いだけ一心に祈る女のその「一途な想念」は、決して「来世」へ送り届けられるものではなく、一心に祈っている「現在」の充実こそを目的としているのだと言う小林に対して、岡崎は、そのような「充実」は人が物質になりきること、一幅の絵画になりきること、もはや動物としては死んでしまっていて文物と成り切ることによってしかあり得ないと言う。つまり、生きている人間は常に周囲の枝葉末節な事柄の対応に忙しく追われてしまうという次元から離脱できるものではなく、一心の祈りのなかにいる人物はその祈りの「充実」のなかに完全に没入することは出来ずに、絶えず揺らいでいるほかない。ここで小林があたかも祈りと一体となったかのような女を想定できるのは、小林が思い浮かべているのが、あくまで紙に書かれた文字や絵であり、物質に媒介された人物だからだ、と。(つまり「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」という言い方が決して生きた人間には適応されず、物質として凍り付いた物、「死んだ」物が媒介するイメージとしてしか実現されないということ。)しかしここでは批判だけが行われている訳ではなくて、「上手に思い出す事」によって「過去から未来へと餅のよう延びた時間」から逃れる可能性という考え(物質を「媒介」とした「想起」による「今ここ=リアルタイム」とは別種の現在の可能性)を引き出してもいるのだ。

小林秀雄のテキストに対しては、上記のように微妙で両義的な姿勢を示しているのだけど、後半にかなりの分量で登場する、柳宗悦のテキストに対してはそのような姿勢は一見するとみられない。と言うか、ほとんどその引用を無条件で受け入れているようにさえ思えるのだ。柳のテキストで言われていることを簡単に要約すれば、「南無阿弥陀仏」という念仏は、人が仏に向かって念ずるのでも仏が人に与えるのでもなく、仏と人という主客の二分が発し、そして滅するその場所そのものとしてあり、つまり「南無阿弥陀仏」という六字そのものが世界の根源であり全てであり、正に「天上天下唯我独尊」である、ということだ。これをそのまま受け取るとしたら悪しきポストモダン的なイデオロギーと言うより、ほとんど神秘主義的なニューサイエンスみたいになってしまう。そして柳はこの「ただ無心」で唱えられるべき「念仏」を、《平凡な工夫たちの没個性的で機械的に反復される生産から、すぐれた作品が生み出される原理》へと接続する。美とは天才の表現ではなく、機械的に反復される流れに従うことで必然的に実現されるものなのだ、と。《物が物を産みだすのであって、人が産みだすのでもなく、人の想念がそれを可能にするのでもない。物を思い起こすのもまた物であり、この無心の想起の反復=物の継続にこそ美は宿る。》

当然のことだが、これを一般的な「美」に関する考察だと受け取ってはならないだろう。(かと言ってぼくは、美はやはり主体的な個=天才に属するものだなどと言う気もない。そんな単純なことではないのだ。)柳にしても岡崎にしても、具体的に「民芸運動」とか「スピルバーグの『A.I』」とかに結びつくという限りで、このような考えが導きだされているということを忘れてはならない。しかし、だとしても、岡崎が柳の引用をふまえて、『A.I』という映画が刺激的たりえているのは、スピルバーグという人が徹底して凡夫に留まっていて、映画というメカニズムにどこまでも忠実であること(賢しらな主体を捨て去り、ひたすら同じものの反復に身を委ねたこと)によっている、という風に結論をもってきてしまうのは、この刺激的なテキストの締めとしては、いささか退屈過ぎて表紙抜けだと言うべきだと思う。

●ここでもう少し具体的にスピルバーグという人の置かれている「位置」について考えてみたい。誰がみたって『A.I』という映画は傑作と言えるようなシロモノではない。しかしにもかかわらず、何とも奇妙で非常に刺激的な作品ではあるのも間違いないと思う。そしてその奇妙さは、決してスピルバーグという人の個性や才能に由来するものではないということも確かだろう。それは恐らくスピルバーグの置かれている独自の「位置」と関係がある。スピルバーグが「徹底して凡夫に留まっていて、映画というメカニズムにどこまでも忠実に」映画を作ることができるのは彼の置かれた「位置」のためだ。スピルバーグはもはや、古典的な完璧な映画に憧れる生真面目な映画学徒ではない。しかし例えばルーカスのように、たんまり儲けたらサッサと現場から身を引くという訳でもない。充分以上に名声とお金を得たスピルバーグには、もう映画をつくる上での野心というのはほとんどないのではないか。何本かの映画がコケたからといって大して困る訳でもないだろうし(財政的な基盤は今や映画制作や配給によるものではなく、多分CGなどの映像技術などの方にあるのだろうし)、逆に何本かの映画が大ヒットしたり大評判になったりしたとしても、今さらスピルバーグという名前(作家)が刷新されるほどのこともないだろう。だからスピルバーグは、恐らくごくいい加減にまったりと、適当な態度で映画をつくっているのではないだろうか。もし、少しでも「商売」ということを考えていて、完成した作品のフォルムを事前にイメージしているとしたら、いくら何でも『A.I』とか『プライベート・ライアン』みたいな歪んだ映画ができるほずはない。スピルバーグが、ヒットさせなくてはいけないというプレッシャーとも、作家的な野心とも無縁に、映画制作のメカニズムに逆らわずにどこまでも忠実に(賢しらな主体を捨て去り、ひたすら同じものの反復に身を委ねて)映画がつくれるのは、その過剰なまでの「資本主義的」な成功によるものであって、それはあくまで特権的なもので、誰でもが(ただ凡夫であろうとすることによって)できるというものではない。これは作家的な才能というものとは別種の、もっと世俗的で偶発的な固有性であると言える。

●しかし、これだけで『A.I』という作品の奇妙さを説明できる訳ではない。その不思議さはあくまでも、デビッドの、ありふれていると同時に《数えることも比べることも取り替えることも出来ない》体験にあるのだし、あの《浮遊した1日》にあるのだ。《いわばどこにでもある(よって誰も見向かない)、ありふれた---ゆえに自分だけが持ちうる---絵として、デビッドが授かった1日。》