小島信夫/保坂和志(往復書簡)『小説修業』を読んだ

小島信夫/保坂和志(往復書簡)『小説修業』を読んだ。

●アトリエからの帰り、午後10時半過ぎ、建物の2階にある喫茶店の窓際の席でコーヒーを飲みながら、昼間読んだ『小説修業』をパラパラとめくり返していたら、窓から見える細い道を、駅から出てくるバスが窮屈そうに通り抜けて行った。薄暗い道を通るそのバスの内側は、無機質な蛍光灯の光で明るく照らされていて、離れた2階の窓から見ているぼくにも内部に乗っている乗客の姿が嘘臭いほどくっきりと見えて、まるでバスの内部と外部が捩じれてひっくり反り、内側が外へと露出してしまったように感じられた。

●ぼくはこの日記で、読んだ本や観た映画なとの感想を、手短にサクサクッと書いておこうと思って書き始めたのに、何故かズルズルと長くなってしまい、自分でも制御できないという状態になってしまうことがしばしばある。これはまず第一にぼくの混乱や頭の悪さを示している訳ではあるけど、しかしこれはこれで貴重な事でもあると思っている。手短にすむと思っていた事が、書き出したら長くなってしまうと言うことは、つまり「書かなければ考えなかった事」を、書いた事によって考えさるを得なくなった、ということだろう。ぼくは基本的に「サービス精神」というのが希薄な人間で、こんな風に書いても誰も読まないだろうとか、こんなことに関心を持つ奴がいるのだろうかなどという考えはすぐに消えてしまって、時間があり、気力がつづくかぎりは「ダラダラつづく」方へと身をまかせてしまう。(しかし結局は「気力」がつづかずに適当な所で手を打ってしまうのだけど。)でもこれは決して「自分勝手」に考えているのではなくて、1人で頭のなかだけで考えているぶんには考えなくて済んでいたことを、「他人の目に曝す」ことを意識した文章を書くことで考えざるを得なくなったということで、つまり言葉というのは自分の「外側」に、他人と「関係」する為にある訳で、やはりそこには他人に分かってもらいたいとか、他人がどう考えるのか意見を聞きたいとかいう欲望が存在している訳だろう。(自分勝手に、ただただ自分の気持ちや考えばかりを並べ立てているような文章は確かに不快だけど、その一方で、他人に「分り易く」書く、とか、人が興味を持つように「面白可笑しく」書く、とかいう言い方には、どこか他人を馬鹿にしているような響きを感じてしまう。勿論そこには最低限の他人に対する配慮というのは必要だろうけど。だいいち、誰がどんなことに興味を持ち、何を面白いと感じるかなんて、「事前」には誰にも分らない訳で、それがある程度予想できてしまい、コントロールすらできると考えるのは、他人を「支配」しようとする奴の考え方ではないだろうか。)

●今まで書いてきた事は、『小説修行』という本の内容とは直接は関係ないのだが、この本を読みながら、このようなことを感じ、考えていたのだから、何かしらの関係はあると思う。

保坂和志は、この本のなかで、小説を書くというのは「使い尽す」ことだ、と言っている。カフカの『掟の門前』の、一生待たされて最後まで入ることを許されなかったその門が、じつはその男1人だけのためのものだったという話を引いた後、保坂氏は書く。《この「その人だけのやり方」というのが、またまた誤解を招くような表現なのですが、事前に考えている計画がすべて無効になった後に残された、うまくできる保障のない何かのことで、そのときにだけ「その人」が現れてくるということで、もうそれは本当は「その人」ではなくて「小説」なのです。小説とは、「ああも書けるこうも書ける」という選択肢の中から書き手が主体的に選んだようなものはつまらないもので、「こうとしか書けなかった」というのが小説で、それが「その人」なのです。》主体的に選択し得るあらゆる可能性が「使い尽された」後で、いわば状況に強いられるようにそれ以外に成す術がなかったという形で成された「何か」こそが「その人=小説」そのものなのであって、だから「自分らしさ」(主体的に選択された自分のやり方)にこだわるような人は実は、ありふれたものであると同時に唯一の交換不可能な固有性としての「その人」に到達することは出来ない。しかしこの「こうとしか書けなかった」というのは自然というのを意味しないだろう。むしろ決して自然に書くことが出来ないという強いられた条件のなかでしか書けないということだろう。つまり「その人」というのは、その人の本来持っている資質=本質のようなものが素直に実現されるということではなくて、様々な偶然や社会的な関係の結果としてそこにいる「その人」だということだろう。このことは、人が作品をつくっている時の「余裕のなさ」(この余裕のなさは確かに、人が夢のなかで直面する余裕のなさに似ている。だから保坂氏の言う、夢のなかの余裕のなさこそが、現実でのリアリティのもとになっている、という説にはかなり説得力を感じる。)を充分に説明するものだと思う。確かに作品は(少なくともその核になるような部分は)、「使い尽し」による「余裕のなさ」のなかでしか形成されないとぼくも思う。

(つづく)