佐藤信介のメジャーデビュー作、『LOVE SONG』

●ここ1ヶ月以上全く映画を観ていなかった。1ヶ月ぶりの映画はビデオで観た。『正門前行』の佐藤信介のメジャーデビュー作である『LOVE SONG』。明らかにレコード会社主導の企画モノで、しかも題材が「尾崎豊」という、何ともリスキーな仕事を、佐藤信介がどうこなしているのか、が、この映画を観る興味のポイントに、どうしてもなってしまう。で、結果はといえば、良く出来たテレビドラマみたいなモノに落ちついてしまった、という感じ。「テレビドラマ」っぽく感じさせてしまうのは、所々で時間がダブついたように間延びしていて、その間延びが安易な抒情として回収されてしまっているからだと思う。それと、あまりにセリフによって多くのことを語らせすぎる(登場人物か皆、ここぞとばかりに昔語りをしてしまう)。『正門前行』では、その複雑な構成力によってあまり目立たなかったけど、佐藤信介という人は、一つのショットに内在する時間を演出するのが得意ではないのかもしれない。

とはいえ、「尾崎豊」のアルバムをきっかけに出会った男女がいて、男は「夢」を追って東京へ旅立ち、しかし、その数年後には、2人ともその当時の「夢」を見失ってしまった状態で生活に追われていて、ふとしたきっかけから女の子が男を探しに行く、という、どう考えても甘ったるくて下らないものにしかならないような題材を、ここまで観られるものに「救って」いるのは、ひとえに佐藤信介の聡明さだと言えるだろう。特に、男女が再会する(再会し損なう)場面など、これ以外にはどのようにしたって陳腐なものになってしまうだろうところを、よくもまあ見事にギリギリで切り抜けたという感じだ。(スローモーションを使うのはどうかと思うけど。)それに、想い出の「尾崎豊」のコンサートで出会うのが、女の子が探している「男」ではなくて(こんな場面で再会なんかしたら、それこそ最悪だ、とドキドキしなから観ていた)、いつも女の子のまわりをうろうろしているウザッたい男との、改めての出会いというか、出会い直しだったりするところも、佐藤氏の脚本家としての冴えを感じさせる。(この場面は感動的だ。でも、そのほかにも随所にみられる細部の「冴え」が皆、監督としての冴えであるより、脚本家の冴えであるようにも思えてしまうのだが。)

たんに夢破れた身勝手な男が迷走する話ではなくて、彼の周囲にいる(いた)複数の人物それぞれの「事情」や「立場」もそれと搦めて描くことで、男を相対化するとともにドラマに厚みを与えるやり方や、男を探してる女の子が、男の知り合いに聞いて廻る、断片的で噛み合わない話(人によって話が少しづづズレている)によって男の過去を浮かび上がらせる劇作術などは、常に複数の人物の視点=視差から立体的に物語りを語る『正門前行』以来のこの監督=脚本家のお馴染みの得意技と言える。しかし『正門前行』においては、「事件」について語られる、様々な人物の様々な話は、決して核心である「事件」そのものへと収斂されるものではなくて、全体を構成することのない断片の過剰な増殖としてのみあり、そのことが、一つの特権的な視点によって俯瞰的に見通すことの出来ない(中心というものがあり得ない)、複雑な人物同士の関係で出来ている世界の不透明さをあらわしてもいるのだけど、『LOVE SONG』では、男を探す女の子の様子も、探されている男の状態も、観客は俯瞰的な視点から知ることが出来ていて、世界は、登場人物にとっては不透明であっても、観客には透明なものとして与えられてしまっている(つまり観客という視点の中心に対して構築されている)のだから、このような「作劇術」は本質的なものではなく、ただ語りを複雑なものにするための「意匠」に過ぎないという地位に格下げされてしまってはいるのだ。

佐藤信介という人が、監督より脚本家の資質の人ではないかと思わせてしまう理由の一つに、俳優をイマイチ魅力的に捉えることが出来ない、ということがあるのだけど、この映画でも、最も魅力的だったのは、主演の伊藤秀明でも仲間由紀恵でもなくて、仲間由紀恵の同級生として、ほんのちょっとだけ登場する三輪明日美なのだった。ベッドに寝転んでいる仲間由紀恵の脇で、窓際で制服から私服に着替えている三輪明日美の身体は、この映画のなかで唯一「映画の構造」からはみ出すくらいに生き生きと動いている存在だった。(俳優の魅力の無さは、演技や演出いうレヴェルの問題だけでなくて、そもそも主役の2人の人物造形=設定に全く魅力が感じられないことに原因がある。この0.魅力の無さは、おそらくつまらない企画から無理矢理引き出された人物だからだと思う。)

この映画を観ていてつくづく思ったのは、現在の「映画監督」というのは、ハリウッドというシステムの内部にでも属していない限り、「作家」として映画をつくるしかないのではないか、ということだ。「職人」として、人から与えられた「物語」を上手に語ることに徹するとか、それを「脱構築」するとかでは、結局つまらないもにしかならない。たとえば黒沢清の『打鐘2・男たちの激情』でも、青山真治の『我が胸に凶器あり』でも、監督本人がどう思っているかはともかく、企画モノではなく、あくまで「作家」の映画として(作家の必然性として)作られているからこそ、観られるものになっているのではないか。(勿論、「作家」であることに違和感がある、というもの分るし、観る側が、必ずしもそれを「作家の映画」として観る必要はない、とも思うけど。)佐藤信介という人は、「作家」として題材を選択する、ということにたいして無防備=無自覚でありすぎるように思う。黒沢氏や青山氏は、その量産時代においても、自分のやりたいこと(あるいは自分の「資質」)とその企画や題材がどのようにリンクするのかを、もっとキッチリ考えていたはずだ。職業として映画監督をやってゆくのが大変なことだというのは分るし、思い通りの企画なんかそうそう通るものではないというのも分るのだけど、佐藤氏のような作家の「聡明さ」が、こんなに下らない題材を苦労して「救って」やったとしても、たいした意味はないし、佐藤氏の得るものは少ないと思うのだ。