『ユリイカ』10月号「村上隆VS奈良美智」(子供ノート/中原浩大の不在)

●『ユリイカ』10月号「村上隆VS奈良美智」にさっと目を通した。ひどくつまらない。なかで唯一、知性のまともな使用を感じさせるのがサドッホ(後藤浩子・澤野雅樹・矢作征男)というユニットによる、『子どもノート』という文章だった。これはたんにドゥルーズ=ガタリ文体模写が成功しているというだけでなく、奈良氏の作品に対するきちんとした分析・記述かあり、それをもとにした批判がなされ、批判した上でその可能性の指摘もあり、そこからさらに「子ども」という概念を足掛かりとして、それを様々な問題を接続してゆく(関係づけてゆく)あざやかな手付きがある。(美術批評家の方々も、いきなり誇大妄想な物語を提示したり、些細な事柄に過剰な意味づけをしたりする前に、まともにものを見て、まともに考えてみて下さいよ。)

サドッホによると、奈良氏の作品に描かれた「子供」は、反-大人としての子供、大人に対する否定的な関係によってあらわれるような子供である。だからこそ、絵のなかの子供がこちらに投げかけてくる否定的な視線は、現在の自分に対してどこかしっくりしない違和感を抱えているような「大人」に強く作用する、と。しかしそこで鑑賞者が見い出すのは、現在の自分の否定としての「過去の自分=子供」でしかない。(何か「忘れていたもの」を思い出させてくれた、みたいなアホな感想がでてくるのも理由がない訳ではない。)サドッホは、奈良氏の『YOUR CHILDHOOD』という作品を分析した上で、次のように書く《確かに『YOUR CHILDHOOD』は鑑賞者との相互作用を促している。しかし、それは決して生成変化を強いるものではなく、〈あなたの=私の〉既に停止し死んでいる〈代理=表象〉しか提示せず、過去の私の表象=再現前化の中に鑑賞者を閉じ込める。作品-鑑賞者の連結によって初めて作用する機械であることは明らかなのだが、〈私〉以外の新たな何かが製造されることはなく、言ってみれば、〈私〉だけを生産する小さな工場なのである。》つまり絵のなかにいる、どこか気持ち悪いのにも関わらず愛さずにはいられないような「子供」たちは、結局、今ここにいる大人である「私」の、かつてあった幼年時代にかわって「何か」を訴えてくれている存在(確かフロイトは、グロテスクなものとは、実はかつては自分のなかにあった「親しいもの」であると言っていた)であり、サドッホはそれを「子ども代議士」たちと呼んでいる。(この命名は無茶苦茶鋭い)《少なくとも彼が描いた子どもは、大人が発見した理念としての新たな子ども像(子どもの表象)であって、子どもそれ自体が孕む怪物性でもなければ、子どもへの生成変化でもなく、たかだか新奇な子どもらしさでしかない。》このようなサドッホによる奈良氏の作品の分析は、とてもしっかりとした正確なものだと思われる。

上記のようなしっかりした分析の後、テキストは一旦奈良氏の作品を離れて、徐々に加速してブッとばしはじめる。多重人格者に対する対処の仕方だとか、ナイフを振り回すような若者はちんちんが小さいだとか、鋭く刺激的でかつユーモラスでグロテスクな記述がつづくので、奈良氏の作品に興味のない方にも、一読をお勧めする。(そういえばboidから出ているCD-ROM『ユリイカスペシャル』にも、サドッホの文章が載っていた。まだ読んでないけど、楽しみだ。)

●ひとつ気になったのは、美術における「文脈」という意味からも、具体的な作品のテクニックという意味からも、村上氏や奈良氏のようなアーティストが出てくるための土壌をつくった作家であると思われる「中原浩大」という名前がこの特集のなかの何処にも見られなかったのは、どう考えても不当なことのように思う。レゴブロックによる彫刻作品で90年代初頭に注目された中原氏は、その特異な才能で様々な形態の作品を発表し、そのどれにおいても一定の成果をあげるものの、移り気な性格なのか、それらの可能性を平気でそのまま放置してしまった感じがある。特に村上氏などは、その名前がポツポツと聞かれるようになった当初はあきらかに中原一派に属していたはずだし、中原氏から多くのものを吸収し(パクッて)、それを独自に発展させ完成度を高めて行ったという事実は明らかだろう。奈良氏の子どもペインティングも、中原氏の巨大な「海の絵」シリーズや、小さなカンバスにクレヨンや色鉛筆で描かれたドローイングなどと深い関係があるのは明らかだと思う。と言うか、中原氏の作品こそが、奈良的なものがアートという文脈にあらわれた最初だと思うのだ。にも関わらず「中原浩大」という名前がないのは、何か政治的な力でも働いているのだろうか。